【プロレス】 | 私的プロレススーパースター烈伝(98) 蝶野正洋

[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝

蝶野正洋のプロレス界での活躍と伝説

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黒のカリスマ

今回は黒の総帥、ミスターG1としても名高い蝶野正洋選手のお話です。

蝶野正洋選手は、日本のプロレス界において「黒のカリスマ」と呼ばれる伝説的な存在です。

挫折を味わった

蝶野選手は、1963年9月17日にアメリカ合衆国シアトルで生まれました。小学校時代は周囲をエリート家庭に囲まれた優等生でしたが、中学校に入ると不良になりました。

サッカー部を立ち上げたり、暴走族に所属したり、警察沙汰を起こしたりしました。高校時代もサッカーを続けましたが、暴力沙汰で停学を繰り返し、挫折を味わいました。

嘘を疑わない

高校時代、深夜に暴走族の集会に行くため特攻服を着て家を抜け出そうとしているとお父さんに「そんな日の丸着いた服でどこに行くんだ」と言われましたが、当時の蝶野さんは「今日は夜におまつりがあるからこの格好なんだよ」と言ってごまかしたそうです。

また違う日に見つかった時には「清掃作業の手伝いに行くんだよ」という嘘もついたが、お父さんは東京の暴走族がどんな格好をしているか知識がなかったので蝶野さんのいう嘘を疑わなかったそうですね。

新日本へ

高校卒業後、浪人中にテレビで見たプロレスに興味を持ち、新日本プロレスに入門しました。

両親はプロレス入りに反対でしたが、蝶野選手は「半年だけでいいからチャンスをください」と説得しました。

お母さんは、蝶野選手がプロレスを辞めたときのために、大学の学費を払い続けて学籍を8年間残していました。

海外武者修行

蝶野選手は、1984年10月に武藤敬司選手と同じ試合でプロデビューしました。

1987年には第3回ヤングライオン杯で優勝し、海外武者修行に出発しました。

ヨーロッパや北米で様々な団体に参戦し、ルー・テーズ選手からSTFという技を伝授されました。

ミスターG1

1989年に帰国後、1990年にはIWGPタッグ王座を獲得し、1991年には第1回G1クライマックスに優勝し、大躍進を遂げました。G1では5回も優勝しました。そのことから、「夏男」「ミスターG1」とも呼ばれています。

蝶野さんの優勝はベビーフェイス時代に3度、ヒールターンしてからは2度優勝を果たしていて、しかも5回中4回がリーグ戦形式による公式戦を勝ち上がっての優勝です。

そして1992年には、NWAヘビー級王座を奪取し、世界のトップレスラーとして認められました。

ヒール転向

蝶野選手は、1994年にヒール(悪役)に転向し、nWoジャパンというグループを結成しました。

nWoジャパンは、新日本プロレスの伝統や規律に反抗し、自由奔放なスタイルでファンを魅了しました。蝶野選手は、黒いコスチュームやサングラス、ケンカキックやSTOなどで、強烈なインパクトを残しました。

1998年には、IWGPヘビー級王座を獲得し、プロレス界の頂点に立ちました。その後も、TEAM2000というグループを結成し、新日本プロレスのヒールの代表として活躍しました。2010年に新日本プロレスを離れてフリーになりましたが、今なお絶対的な存在感を放ち続けています。

リング外でも

蝶野選手は、リング以外にも活動の幅を広げています。テレビやイベント、講演に出演するほか、自身のブランド「ARISTRIST」を立ち上げてファッションデザイナーとしても活躍しています。

また、消防やAED、熱中症などの啓発活動にも尽力しており、感謝状を受けたり、大使やアンバサダーを務めたりしています。さらに、SNSでも情報発信をしており、幅広い層から人気を博しています。

蝶野ビンタ

蝶野正洋選手は、プロレス界において数々の伝説を作り上げた選手です。技巧派のレスラーであるため実際の試合で張り手をすることは少ないが、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」にゲスト出演した際に、出演者に強烈なビンタを見舞うことが「蝶野ビンタ」として有名になりました。

これはスタッフから「とにかく山崎方正さんを叩いて下さい」と要望され、内容なども聞かされないままビンタをしていたそうです。

一番怖かった

蝶野選手は最初は断ったのですが、結局やることになりました。

ただ、もともと蝶野さんはビンタを始め、人を叩くこと自体に否定的であり、最初に山崎さんにビンタした際も相手が素人だったこともあり、「どの放送回よりも一番怖かった」と語っています。

ガールズ&パンツァー

蝶野さんは、アニメ「ガールズ&パンツァー」の応援大使でもあります。「ガールズ&パンツァー」は、戦車道というスポーツに青春をかける女子高生たちの物語です。

戦車道は、戦車を使って相手のフラッグ車を撃破することを目的とした競技で、女子のたしなみとされています。

作品では、廃校の危機にある大洗女子学園の戦車道部が、全国大会で優勝を目指す様子が描かれています。

応援大使

作品は、テレビアニメ、劇場版、OVA、ゲームなど様々なメディアで展開されており、多くのファンを獲得しています。

蝶野さんは、東日本大震災後に被災地の大洗で「ガールズ&パンツァー」のイベントに参加したことがきっかけで、作品に興味を持ちました。

ガルパンおじさん

蝶野さんは、作品の地域貢献やファンの熱意に感銘を受け、自ら応援大使に名乗り出ました。

今では、ガルパンおじさんと呼ばれるファンの代表として、作品やキャラクターの魅力を積極的に発信しています。

作品に感銘

また、蝶野さんは、作品のマスコットキャラクターであるボコちゃんにも愛着を持っており、イベントで相撲対決をしたこともあります。

蝶野さんは、作品の友情や励まし合いのシーンや、戦車が勢ぞろいするシーンなどに感動しているそうです。

猪木さんとの縁

蝶野さんと言えば、アントニオ猪木さんとの縁も外せません。

アントニオ猪木さんの付き人を任された蝶野さんは、あまりのプレッシャーから、夢に猪木さんが現れ、夜中に飛び起きたといわれています。

また、巡業先で猪木さんと一緒にお風呂に入ったとき、「誰もいない流し台を洗い、使用していない桶をキレイに並べる猪木さんの姿に感動し、それ以来、巡業先では自分も同じ事をしている。」と、心温まるエピソードを披露されています。

深夜の道場

蝶野さんが猪木さんの付け人を務めていたときは、シリーズが終了しオフになると、猪木さんは深夜に東京・上野毛の新日本プロレス道場を訪れていました。

当時の猪木さんは借金の返済に追われるほか、スポンサー筋との会食など多忙を極めていました。

それらをすべてこなしたあと、道場に立ち寄り、汗を流すのが日課となっていたのです。

とばっちり

始まるのはだいたい深夜1時ごろ。そこから2時間、3時までみっちり練習したといいます。

しかし、そのとばっちりを食ったのが、当時の付け人・蝶野さんでした。

最悪の事態

猪木さんにたたき起こされ、練習に付き合わされるのですから、面倒くさがりな蝶野さんには最悪の事態だったでしょう。

「今日は猪木さん、来なけりゃいいんだけどなぁ」と蝶野さんは毎日、寝る前につぶやいていたらしいですね。

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