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[映画鑑賞記] 素晴らしき哉、人生

17年12月6日鑑賞。

ジョージ・ベイリイ(ジェームズ・スチュアート)は子供のころ から、生まれ故郷の小さなベタフォードの町を飛び出し、世界一周旅行をしたいという望を抱いていた。彼の父は住宅金融会社を経営し、町の貧しい人々に低利で住宅を提供して尊敬を集めていたが、町のボス、銀行家のポッター(ライオネル・バリモア)はこれを目の仇にして事毎に圧迫を加えた。大都会のカレッジを卒業したジョージは懸案の海外旅行に出ようと思ったが、突然、彼の父が過労のため世を去った。ジョージは、株主会議で後継社長に推され、承諾せねばならぬ羽目となり、弟が大学を卒業したら会社を譲ることにして、一時海外旅行もおあずけになった。ところが4年たって大学を卒業した弟は、大工場主の娘と結婚しており、その工場を継ぐことになっていた。ジョージの夢は全く破れ去った。やがてジョージは幼馴染みのメリイ(ドナ・リード)と結婚した。そして豪勢な新婚旅行に出発しようとした時、世界を襲った経済恐慌のため、ジョージの会社にも取付さわぎが起こった。ジョージは旅費として持っていた5000ドルを貧しい預金者たちに払い戻してやり、急場をしのいだ。そのため新婚旅行は出来なくなったが、2人は幸福な結婚生活に入り、次々と4人の子供に恵まれた。住宅会社の業績も着々と上り、それに恐れをなしたポッターはジョージ懐柔策に出たが、彼は断固拒絶した。(あらすじはMovie Wakerより)

「素晴らしき哉、人生」は、アメリカでは年末になると必ず観返される映画であり、クリスマスの定番映画。のみならずアメリカの映像学部では学生に見せることが必須であるという。

それほどの映画であり、さまざまな作品に影響を与え続けた映画を恥ずかしながら未見だった事実。しかしながら絶妙なタイミングで観るチャンスが訪れたこと。これらは決して偶然ではないだろう。時代を超え、世代を超え、万人に認められる名画、それが「素晴らしき哉、人生」という作品なのだと私は思う。これは出会うべくして出会ったタイミングだったのだ、と思わざるをえない。

公開から70年を経てもなお、愛され続け、観られ続けているのもそう。映像を学ぶ学生のお手本になりえていることもそう。全てのピースが計算されてはめ込まれているとしか私には考えらない。

例えば冒頭の天使の会話だが、あれもわざとではないか?というくらいチープに作られている。見る限り星と星が会話しているように見えるのだが、その星の作り方がいかにも低予算な感じがして、いくら70年前の映画とは言ってもこれはちょっとなあと思わせる箇所でもある。なぜわざとだと思えたのか?それは後半出てきた二級天使クラレンスのちょっと場違いなコミカルさにもつながっていて、彼が出てきたときにその様相を見るとなんか納得してしまう。

それと、映像の作りこみに関しては特に雪のシーンなどにモノクロという画面を活かした画面設計がなされており、その端緒な例が終盤の雪のシーンでもある。白黒だからこそ印象に残る場面でもあるが、あれほど雪を美しく撮れる実力があるのだから、やろうと思えば星の瞬きくらいどうにでもなったはずである。そこをあえて、チープな感じに演出したあたりにも、この映画を作ったスタッフ一同がただものではないことをうかがわせる。

「素晴らしき哉、人生」は1946年の作品である。同時期には初代のスーパーマンが映画化され、1950年代に入ると、名作「地球が静止する日」や、日本でも「ゴジラ」(第一作目)が作られている。つまり当時の特撮技術的には星をリアルに撮ろうと思ったらモノクロであってもできないことはなかったと考えられる。よって、あの冒頭のチープさは演出サイドの「狙い」であったのではないかと私は思っている。

細かい所をみていくとキリがないのだが、物語のテーマ自体も不変である。本当に生きたかった人生とは異なる人生を歩んでしまう主人公ジョージは、そのおかげか?様々な艱難辛苦に見舞われる。一方で、チャンスをものにした彼の弟や友人たちは大出世していく。幸せそうな彼らを誇らしく思いつつ、どこか素直に喜べていないジョージの憂鬱をジェームス・スチュアートが好演している。のちに裏窓やめまいといったヒッチコック作品にも登場する彼の魅力を、「素晴らしき哉、人生」の監督フランク・キャプラは「彼の平凡な魅力は、どこにでもいそうでどこにもいない」と着目し、彼をスターにした。その集大成として作ったのが「素晴らしき哉、人生」だったそうだが、当時の興行的には惨敗だったらしい。しかしジェームス・スチュアート自身は、「ロープ」でヒッチコック作品に初主演して以降、ヒッチコックお気に入りの俳優としても計4本に主演することになった。ヒッチコックもまたジェームス・・スチュアートの魅力を見抜いていた一人だったのだ。

下手すれば時代に埋もれて消えていたかもしれない映画が時を経て再評価され、今や映画の教科書的な扱いにまでなったということでいえば、宮崎駿初映画作品でもある「ルパン三世カリオストロの城」もそうである。あれも時代を経て評価が変わっていった映画の1つでもある。そう考えていくとこの映画自体がジョージの姿と重なる部分がある。

二級天使クラレンスがジョージに見せた「ジョージが生まれていない世界」は、今見ると非常にSF的でもあるが、同時に「もしもの世界」を垣間見させることで、ジョージという存在自体がいかにかけがえないかをこれでもかと、見ている側に訴えてくる。確かにうまくいってないと人間「自分なんかいなくてもいいよな」と思うことはある。私なんかその傾向が特に強いため、ジョージのようなヤケはしょっちゅうおこしている。しかし私もこうして生きていられることには何かの意味があるのだと思う。ジョージに限っていえば、弟を氷上の事故から救い出し、恩人のトラブルを未然に防いでいたり、実はいっぱいすごいことをしているのだけど、本人は問題に囚われて、自分の価値を見えなくしてしまう。これはでも人間だれしもがやっちゃうことかもしれない。そう思うとやけを起こしてもそれはそれで意味のあることなのかもしれないとも思える。

最後に1級天使になったクラレンスが姿を現さずに「友あるものは、敗残者ではない」というメッセージを残していくのも粋な演出だと思う。今の映画だと1級天使のクラレンスを出してしまったりするんだろうけど、そうでないところにこの映画の「引き算」がいかに効果的だったかを思い知らされる。最後は友に、家族に救われたジョージ。左耳の聴力を失ってなお、素晴らしいと言い切れる人生に気が付けたという点では本当に彼は幸せ者だと思う。

実際、誰の人生も等しく「素晴らしき」ものであるはずなのだ。でも多くの人はそこに気が付かず生涯を終えてしまう。ジョージのような体験を現実で味わうことはできないにしても、何らかの気づきがあれば、世界は一変する。この映画と出会った人が自分の人生を「素晴らしき哉」といえるようになれるといいなあと、と私は思っている。素晴らしき映画に出会えたことを心から感謝したい。

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