プロレス的発想の転換のすすめ(118) ケレン味とプロレス
外連とは?
今回はケレン味とプロレスのお話です。
「外連(けれん)」は本来演劇、特に歌舞伎でよく使われる用語で、例えば綱渡りや宙乗りなどで観客を沸かせるものを指します。
正統派ではない
正統派の芸ではないけれど、「歌舞伎にとっては”見せる”という、大切な要素を受け持つもの」でもあるため、「けれん味がある」は良い評価で使われることが多いと思われます。
例えばヒーローものだと、テレビでは揃わないメンツが劇場だと勢ぞろいするあたりはまさに「外連」ですよね。
大事なのは
ここで大事なのは、外連とは正統派が中心にあって初めて成り立つという事です。
DDTの秋山準選手は最近こういう言葉をよく使われています。
秋山語録
「プロレスって最初の後ろ受け身から始まって、高度な技術までを1から10までとすると、1から5までは普通の試合ではあんまり使わないんですよ。6から10で試合は組み立てられるし、あるいは1から5の内の2をまったく知らなくても試合は成立させられる。今の時代は6から10でやっちゃえるから、必要ないのかもしれないし、それでいいのかもしれないけど、僕らの時代は1から5というのを標準装備していないと試合ができなかった」(出典元・ドラマティック・ドリーム・コラム)
6から10までが
秋山選手の言葉を借りるならば、「1から5」までが正統派の部分。
そして「6から10」までが外連に相当すると私は考えています。
そこだけだと
私観ですが、現代プロレスはほぼほぼ「6から10」まででできていると思います。
もちろん「1から5」が出来てこその「6から10」ではありましょうけど、そこだけで試合をしてしまうと、外連がケレンではなくなるわけです。
ベーシックな部分を
あくまで、ベーシックな部分をしっかり見せるからこそ「ケレン味」が引き立つわけで、ケレンを使い続けてしまうと、それ自体が標準になってしまいます。
ですから、現代のプロレスでは「11から20以上」まで見せなければケレンにはなりにくいのではないでしょうか。
観客が退屈する?
そうすると、プロレスがより危険な方向に進んでいきかねないため、選手の身体的負担はかなり大きくなっていくでしょう。
加えて、1から5のベーシックなプロレスを、観客側が退屈であると解釈しがちなのも問題があると思います。
バランスが悪い
そもそも明らかなヘビー級レスラーが簡単に空中戦をしかけるなど、ジュニアヘビー級とのスタイル差も年々なくなっていっているようにも感じられます。
全体の興行を通してケレン味の部分を担ってきたところまで、重量級の選手が担ってしまうと、軽量級の存在価値も問われかねませんし、何よりバランスが悪いのです。
そもそも正統派ではない
何度も言いますが、外連はそもそも正統派ではないのです。外連が普通になったら、それはもう外連ではありません。
しかし、一度上がってしまったハードルは簡単には下げられません。
敢えてやらない?
ですから「1から5までをすっ飛ばしたプロレス」は今後も主流にはなって行くでしょう。
今はまだ「1から5」までを理解している選手が「敢えてやらない」で「6から10」のプロレスをしていると個人的には信じています。
意味合いすら
しかし、近年問題になっていたロックアップのように、その意味合いすら理解していないままプロになるケースも増えてきつつあります。
試合の中で形骸化したスキルは受け継がれる事なく、意味合いも薄れてやがては「失われた技術」になるでしょう。
理解し直した方が
そうなった時に「1から5」までのプロレスをやろうとしても、出来る選手がいなくなっているかもしれません。
そうなる前にどこからどこまでが外連になり、どこからどこまでがベーシックな部分なのかを、選手も観客ももう一度理解し直した方がよいのではないか?と最近私は考えているのです。