老害プヲタ・プロレス“ザ・モンスター”ハラダの発想の転換のすすめ#59 生かされている意味とプロレス
生きていて当たり前?
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今回は生かされている意味とプロレスのお話です。
抗がん剤治療で入院すると、色んな事を考えます。とはいえ、私の死生観を大きく変えたのは、ガンより友人の死でした。
彼が先に旅立ち、私が残されたのはなぜなのか?苦しい抗がん剤治療を続けてまで、生き永らえているのは、どうしてなのか?考えに考えました。
生かされているとは書きましたが、実のところ若い時分には「生きていて当たり前」という感覚でした。
「生きたい」と「死にたい」
幼い頃からさまざまな病気にもなりましまが、この「生きていて当たり前」という根拠のない自信だけは常にありました。
反面、自分の存在を世界から消したいとも考えていて、それが色んな問題に繋がっていったんですが、このように「生きたい」と「死にたい」を常に隣り合わせにしたまま、私は人生の大半を過ごしてきたのです。
しかも、生きる軸に「人からすごいと思われたい」があったため、今にして思うと、生き方がブレブレになっていました。
「すごいと思われたい」という思いの根底には、常に他者の視点が入ります。そこに自分の視点はないわけです。
場違い感が半端なく
だからこそ、「自分よりすごい奴がいる」と「周りから認められない」という劣等感がつきまとうので辛くなるし、軸がブレているため、いつまでたっても自分に自信がもてないわけです。
私は大のプロレスファンで、長年プロレスを観ているのですが、不思議と一度もリングに立ちたい、人前で目立ちたいという気持ちになったことがありませんでした。
数年前、がむしゃらプロレス運営部からのご指名で、タイトルマッチ宣言(トゥエルノ・ゲレーロ対YASU戦)をさせていただいたことがあるのですが、自分でも場違い感が半端なくて、すぐにでもおりたくなったことを今でも思い出します。
後で見ていた知人から「ベルトを四方に向けるのが早すぎる」とご指摘いただいたのですが、それくらい早く降りてしまいたかったのです。
いつまでも自信が持てないまま
どこかで自分も凄いと思われたい気持ちもある反面、「自分より適任がほかにもいるだろう」という思いが拮抗しており、ずっとモヤモヤしていたことを今でもおぼえています。
しかし、がんになってからというもの、いつまでも自分に自信が持てないまま終わってしまっていいのか?という思いは日に日に強まっていきました。
いつ死ぬかわからない
先に述べたように、友人の急逝以降「自分もいつ死ぬかわからない」という気持ちも強く持つようになりました。
となると、自分の人生にも意味があって、自分は生かされてきたのかもしれないと思いいたるようになりました。
15年前に私は前職をクビになり、そこか望まずしてフリーランス(というか無職)になったまま生きてきました。
自分ができる貢献は何なのか?
普通仕事を失い、収入源が絶たれたら、社会的に抹殺されたも同然だと思います。
しかしそれでも私は大病を患いながら、今も生きています。
その意味を考えながら、遺された時間で自分ができる貢献は何なのか?自問自答しつつ、生きていく意味を考えていきたいと思っています。