それでも生き永らえた!生命力イラストを描いているcocoroharadaの由無し事ブログ〜生命力イラストができるまで〜 ⑦
私の人生を守る
私にとって「絵を描く」という行為は息をするのと同じくらい自然なことです。昔はこれがお金になれば幸せだと思っていましたが、ぶっちゃけお金になろうが、なるまいが、描いてる瞬間はたまらない充実感があります。ですから、割と絵で稼ぐ、という事には頓着していません。
このブログで描いていきたいことは、私が絵で表現したいことを文章化したものです。絵で全てが伝えられたら問題ないんですが、文章を書く事も嫌いではないので、蛇足ではありますが、自分で作品や絵に込めた思いをこれからつらつら語っていこうと考えています。
2018年現在、私は週5小倉にいて、週2で実家にいる二重生活をしています。老親のボケが年々酷くなっていることも要因の一つですが、私個人の人生を守る意味でもこれは必要なことでした。
先だって誕生日を迎えて一つ歳を重ねてきました。50代になってつくづく痛感するのは、40代まではできていたことが、だんだんできなくなってきたな、ということでした。
私が50過ぎてヨガを始めたのは単なる偶然でした。それまではスポーツジムなどで筋肉をつける運動に主眼を置いていましたが、さすがに50代になると「筋肉いらないな」と思うようになりました。それは大病の経験から、それまで蓄積されていた筋肉が脂肪に変わってしまい、しかもそれがなかなか落ちないことにも起因しました。
「介護される側」になる可能性
そもそも姿勢や身体のバランスが悪いという自覚もありましたので、改善するならまず筋肉量より、そっちだなという思いもありましたからね。
後は年齢的にそう遠くない将来、わたしも「介護される側」になる可能性が年々高まっているという事実もあります。なるべくなら介護をされたくはないですが、未来のことは誰にもわかりません。でも今現在できることをしていくことならできます。いたずらに未来を不安視するより、今ここの時間を大切にすることの方がよほど建設的ではないでしょうか?
絵を描くという作業は基本前かがみになりやすいですし、姿勢も悪いはずです。少なくとも私の場合はそうでした。「作品というのは多かれ少なかれ自分の身を削って形にするもんだ」という思い込みもありましたから、身体の痛みや不調はむしろ勲章だ、くらいには考えていました。
しかし、心身が不調になるにつれて、健康を保たねば、好きなこともできない、という当たり前な事を思い知らされてきたのです。
ましてや、仕事なんかはもってのほかです。私の場合緑内障という、悪くなれば数値で不調を突きつけられる病があるだけに、この事実はとても重たいものがありました。
ですから、40代までなら無理してでもやっていたであろう事もなるべくやらない方向で過ごしてきたわけです。
怒りの感情に起因
しかし、好きな事だけしていくとしても、考えなしにやっているだけでは、無策無為と何ら変わりはありません。最終的には自分が健康的に生きながらえた上で、お金も稼げる状態にしないといけないわけで、これは途方もない難題だと私は思っています。
本当は鬱や緑内障でなんらかの支援が得られればいいのですが、近年審査も厳しくなっており、本当に困っていても支援を受けられないのが現状です。実際10年前に申請はしましたが、審査で私は落とされました。
かといって、無理して仕事すればお金だけは手に入りますが、それではブラックな働き方をしていた時代と何ら変わりはないのです。さすがにそれは避けたいですし、失明の危険性と隣り合わせであることは肝に命じておかねばなりません。
多分こうしたネガティブな事象というのは、私の中にある怒りの感情に起因しているものが大半ではないか、と考えています。怒りというのは、実社会でぶちまけると、ともすれば軋轢を生み出しかねませんが、例えば安心・安全の場が保証されたカウンセリングルームで、感情を表出したり、作品として昇華するなどの方法で外に出すことで、通常は消えてなくなります。
ですが、最近自分の中にある怒りが思った以上に大きくなりすぎていて、作品の原動力にするくらいではおさまらないことに気づきました。そもそも自分の中にある怒りをなかったことにして見ないふりを続けてきたのが、今までの私がしてきたことでした。
したがってこれから私がやるべきことは、適切な形で自分の中にある怒りを表出して、穏やかな状態に持っていくことですね。そのためにはもちろん作品も作り続けますし、駄文も書き連ねるでしょう。
今のところ、解決策は見いだせていませをが、少しずつでも向き合って、穏やかさを手に入れていきたいですね。