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それでも生き永らえた!生命力イラストを描いているcocoroharadaの由無し事ブログ

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それでも生き永らえた!生命力イラストを描いているcocoroharadaの由無し事ブログ〜生命力イラストができるまで〜 ⑧

台本を読むという事

私にとって「絵を描く」という行為は息をするのと同じくらい自然なことです。昔はこれがお金になれば幸せだと思っていましたが、ぶっちゃけお金になろうが、なるまいが、描いてる瞬間はたまらない充実感があります。ですから、割と絵で稼ぐ、という事には頓着していません。

このブログで描いていきたいことは、私が絵で表現したいことを文章化したものです。絵で全てが伝えられたら問題ないんですが、文章を書く事も嫌いではないので、蛇足ではありますが、自分で作品や絵に込めた思いをこれからつらつら語っていこうと考えています。

さて今回は「表現」についてお話ししたいと思います。最近「セリフを読む会」という集まりに参加して、はじめて台本を読むという体験をしました。

単に音読ということでなら、義務教育の時分に散々やってきたことですが、あれは特別役になりきるとかいう事ではありませんでした。しかし台本を読むという事は字面に記された登場人物の心情や背景、はたまた世相といったものにまで目を向けていく必要があります。

今回は初回という事で筆記用具も何も持参していなかったのですが、ディレクションを受けたり、自分が疑問に思う点、あるいは読めない漢字(笑)にいたるまで結構な書き込みをしていく必要にも迫られました。

「演じる」という表現

台本の書き込みもそうですが、登場人物の咀嚼を終えた上で、最後は相手をみてセリフをしゃべると、不思議なことに演技らしき形になっていたのです。これは面白かったですね。

舞台でやればまた感じも違うんでしょうが、普通の会議室みたいな場所でやると、ちょっとした声優さんになったような気分も味わえました。

普段私がしていることは、主に絵を描いたり、文章を書いたりする「表現」が主になるわけです。時たまプレゼンや解説めいたことはしますが、「演じる」という表現については、それこそ義務教育時代の学芸会以来でした。

実は私には劇団関係者の友人が何人かいて、観劇やワークショップに参加した体験もあるのですが、今回のようにガッツリ台詞を喋る体験は初めてに等しいものでした。

しかも、台本は取り立てて興味のない内容で、おまけに文語体で書かれていました。難しい表現や漢字もたくさんあり、最初は、参加はしたものの「これはどうしたものかなあ」という気持ちがありました。

それまで「演じる」というのは「別な誰かになりきる」事だと思っていました。しかし、現実問題自分が全く違う人間になることはできません。私はかつて社交的で人との交流を苦にしない人間になろうて足掻いてきました。しかし、結果は表向きコミュニケーションに困らないスキルが身についただけで、本質的な部分は何ら変わらなかったのです。

となれば、なぜ役者さんは自分と異なる役柄をあたかもそこにいるかのように演じられるのか?単にプロとしてのテクニックを身につけただけではない、もっと根源的な何かがあるのではないか?という疑問が湧いてきました。

自分の中から言葉が出てくる

自分なりに答えを考えてみると、一つの答えらしきものにたどりつきました。「セリフを読む会」では、内容を深掘りしていくに従って台詞があたかも自分の中に入っていくような感覚を覚えたのです。台詞を言わされているのではなく、自分の中から言葉が出てくるのを、口に出している感じですね。これはとても不思議な気分でした。

言葉では上手く説明できないのですが、これが「演じる」という事なのかな、と思いました。で、あるならばセリフを通じて深掘りしたり、ディレクションを受けたりしながら、役柄と自分を融和させていく作業こそが「演じる」事なんじゃないか?と思うに至ったわけです。

あくまでもこれは演劇ど素人の考えた仮説に過ぎません。自分の中にあるものが、役柄に近づいていくことで、登場人物の思考や心情に寄り添い、共感するということでは、カウンセリングに近いものもあったようにさえ私には思えました。

つまり表現の幅を広げることは、自分の中の引き出しを増やして、寄り添う事や共感できる要素をたくさん手に入れることでもあったのです。ここは引き算ではなく、時に足し算でもいいかな、と思えた部分で、近年の私の生き方を根底から見直す事にもなったという意味でも非常に貴重な体験になったわけなのです。

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