怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(213) 最終章「引き算の生き方」➉
2018/09/14
自分を引き算すると・・・
長い間続けてきた当ブログの役割もそろそろ終盤に向かいつつあります。最後はここまで気づいてきたことで、私の何が変わり、どこへ向かおうとしているのか?そして、最近私が提唱している「引き算の生き方」とは何かを可能な限り説明したいと思います。さて、私は引き算の生き方を推奨はしてますが、これも万事に値する考え方ではありません。今回はそのあたりのお話をしようと思います。
滅私奉公という言葉があります。一般的には、私心や私情を抑えて、国家・地方公共団体・社会・世間などに対して奉仕する精神を意味します。これが人の生きる道だという考え方ですね。
「滅私」は自身の利益や欲求を捨てること。 「奉公」は公に奉仕することですね。「滅私奉公」は、しばしば個人主義・私利私欲の対極にある思想のひとつと見なされます。
ただし、戦国時代であれば、通用する考え方ですが、今の時代に置き換えると必ずしも全てがよいとはいえないと、私は思っています。
滅私奉公には、私利私欲を捨てて、主人や公のために忠誠を尽くすことという意味があります。公や主人のために、自分を捨て去ることが果たして自分のために、そして公のためになることなのかどうか?自分が疲弊し尽くしてなお、自分を引き算してしまうと、それはもう自分のバーゲンセールなんじゃないか?という疑問を、私はどうも捨てきれずにいます。
滅私奉公と無我の違い
そもそも自分の存在自体を引き算しても、公には何の影響もありません。ブラックな職場でブラックな働き方をしているあなたは「俺がいないとこの職場は成り立たない」という義憤にかられることがあるかもしれなせん。しかし、そんなのは思い込みだし、なんだったら、あなたの思い上がりといってもいいでしょう。
実はあなたが辞めようが残ろうが、組織自体は回っていきますし、ひとり欠けただけで機能しなくなる組織など、もはや組織の体をなしていません。
他方で、無我という言葉があります。元々は仏教の言葉で、自分の我欲を捨て去ることで、無我の境地に達する事が目標とされています。では、先にお話した「滅私奉公」と「無我」はどう違うのでしょうか?
ここからは、私の解釈で話を進めていきますが、滅私奉公というのは「公>私」であるのに対し、無我は「私=私」なのではないか、と思うのです。つまり、私の状態を減らして公に奉仕する滅私奉公と、己のあり方を変えていく無我とでは、根本的に目指す着地点が異なるのではないでしょうか。
これからは無我の時代へ
無我の境地は自身のあり方を変えていくだけなので、自分の存在そのものは否定されません。他方、滅私奉公は極端な話、私をないがしろにしてでも公に尽くす事が求められてきます。もう少し極端なことをいえば、あなたの存在自体を公もあなた自身も軽んじていることになりはしないでしょうか?
高度成長期をへて、バブル期くらいまでの日本は、まさに「滅私奉公」の社会でした。しかし、これからは「私」のあり方が問われる「無我」の時代に入ってきたと言えるでしょう。
ぶっちゃけ、滅私奉公の時代は己のあり方がどうであろうと、公さえよければそれでいい時代でもありました。しかし、無我の時代では、それは通用しません。
自分の問題と真摯に向かい合い、自分の中にある問題解決に努め続けることが、これからは要求されてくるはずです。
そうなると、働き方も含めて自分を殺したり、減らしたりする生き方が果たしていつも正しいのかどうか、はその時々において自分で判断していかないといけません。自分をすり減らすだけの時代はもう終わったのです。