怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(202)私がギャンブルをしないいくつかの理由(2)
2018/06/05
*強さへの願望
このブログは基本自分が毒吐きたくて書いてます。毒は自分の中にためておくと、だんだん大きくなっていってある日、暴発します。今回も私の「毒吐き」にしばらくお付き合いいただこうかとも思います。
さて、この「○○をしない」シリーズは二か月あまり当ブログを休んでいる際に浮上してきた比較的軽めの問題を扱います。というか、いちいち理由を口頭で説明するのが面倒になったので、「詳しくはブログ読んで」というために書くようなものです。
同じ説明を何度もするのって時と場合によっては本当に鬱陶しくなることもありましたので、いわば自衛のために書いているものだとお思いください。
そこで一発目は、ギャンブルを題材にしています。今回は主にギャンブル嫌いの大元を辿っていこうと思います。その前に私が7歳くらいから死にたい人間だったことは前提にさせてください。死にたいというと、あなたはもしかしたら私のことを「嫌なことから逃げている弱い人間」と思われるかもしれません。それは半分あたりで半分ハズレです。
私は確かに弱い人間「だった」のですが、強さへの願望がひと一倍ありました。私は死にたい人間であると同時に強くなりたい人間だったのです。ここでいう強さとは何も暴力的な強さ、身体的強さのことではありません。私が憧れていたのは、全ての欲求に負けない「強さ」でした。
*まるで義務のように・・・
しかしながら、私は往々にして加減を知らないため、生きるための全ての欲求に対して打ち勝とうとしたため、結果死ぬ方向に向かって進んでいたのです。具体的には食べない、眠らない、子孫を残さないというのは、通常の人間なら逆らっても無駄なはずなんですが、これに逆らって勝つというのは、自分の中では最大のギャンブルでした。
実際、自分の全財産を突っ込んでも命があれば、大概なんとかやり直しはできます。しかし私の場合、自分のギャンブルには自分の命をかけていたわけです。強くなるためなら、生命維持するための本能は邪魔で仕方なかったですからね。
逆の意味でいうと、快楽ですらあったわけです。「命がけ」という言葉の響きも好きでしたが、本当に命をかけて勝負に挑むと、小銭をかけて一喜一憂する巷のギャンブルが程度の低いものにみえていたのですから、不思議なものです。
ですが、生命維持を疎かにしたことで、2年寝たきりになるという重いつけが私には返ってきました。命をベットしてギャンブルするというのは、ある種無謀なことだと思い知らされたわけです。
とはいえ、こんな感覚を人に話したところで理解はされないので、単に「ギャンブルがキライ」で押し通してました。ところが、この時代は個人の好き嫌いよりも、全体でやることは個人もやらねばならない空気が蔓延していました。したがって、本来なら娯楽や嗜好品であるはずの、いわゆる「飲む、打つ、買う」などといった行為がまるで義務のように押し付けられていた時代でもありました。
でも、正直私は、飲む、打つ、買うに走る人間を長いこと、見下していきていました。「彼らは欲に負けた弱い人間だから、そういうことしかできないんだ」と。今でこそ、それが自分の思い込みだということがわかってますから、押し付けられることさえなければ、酒飲もうが、タバコ吸おうが、パチンコ行こうが、その人の勝手だと思っています。
*強制する周囲への嫌悪
ですが、長い間思い込みに支配されていた時代というのは、ギャンブルを根本から軽蔑してましたからね。同時にたぶん世間一般で言われているところの「大人」が大嫌いだったというのもあります。少なくとも私はそういう大人にはなりたくありませんでしたからね。
でも、この思い込みはある意味私を助けてくれた一面もあるわけです。酒やタバコやギャンブルに使う金は、そのままプロレスやアニメに使えるわけですから、私にとっては単純に必要なかったですし、取り立てて我慢している感覚もないのでわざわざ解決する必要も感じていないだけなのです。
ギャンブルに対する嫌悪感というのは、私に強制してくる周囲への嫌悪でもあったので、周囲が無理強いしなければ私が変わる必要もありませんでした。
ギャンブルに対するスタンスについては、私が多少寛容になった程度で基本変わらないんですが、近年オタクが金になることを知った社会の方が変貌してきています。今やパチンコ屋なんか、どこぞのアニメショップかと見まごうばかりに、アニメ一色です。
そうした「擦り寄り」に関しては正直今でもいい気持ちはしません。しかし、アニメもタダでは作れません。画像欲しさにアニメ制作をスポンサードしてくれる
パチンコ業界は今のところ上客ですからね。私はあの業界に還元する気はありませんが、パチンコがついたからといって、作品までキライになることもありません。
そういう意味で、今の私がギャンブルに対して寛大になれてきたのかな、とも考えているのです。