怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(193) 自分の問題と向き合うための10の闘い(93) 自分が楽に生きるには?③
自由を得るためには?
自由を得るためにはある程度の不自由に甘んじるべき、というのが20年ほどの会社員時代において私が自分自身を縛り付けていた固定観念でした。
自由をお金に言い換えれば、ある程度意味は通ります。しかし額面どおり自由になるために、不自由な時間を費やさねばならないか?といえばそれは違います。本当に自由になるためには、時にお金とも決別する必要があるのかもしれません。
ましてや、最低時給以下の給与で自分の心身を切り売りすることが、本当に自分の自由につながることでしょうか?
お金は生活の糧を得るためには必要です。ないよりはあった方がいいのです。しかし、ないからと言って、一生に一度しかない時間を無駄に費やすことが果たして本当に自由なんでしょうか?
残念ながら不自由の積み重ねで身体を壊した身分としては、現在もなお負荷のかかる仕事はできません。たまに「やりたいなあ」と思うこともありますが、そこを押し切らずに堪えるようにしています。
とりあえずやってみたら・・・
昨年は「とりあえずやってみよう」ということで主催のイベントにもチャレンジしましたし、それなりの充実感もありました。しかし、その代償もまたとてつもなく大きかったのです。
従って2018年は「何もしない」方向に舵を切ることにしました。これだけなら、単に家に閉じこもれば済む話ですが、今いるコワーキングスペースのように、数多ある誘惑の中に身を置いていかにしてその流れに加わらないか、という「試し」も私には必要な気がします。
ブラック労働者体質の私は、ご多聞にもれず、やり甲斐搾取されやすい体質だと自分でも思っています。だからこそ仮に魅力的な仕事が提示されても、それを即決しないことは必要だと思うのです。仮に魅力的だと思った話が目の前に来ても、優先されるべきは自分がより自由な立ち位置でいられるかどうかを常に考えたいのです。
少しでも自由になりそうになければ、断るべきだと最近は思うようになりました。だから仮に昨年受けた案件でも断ることはあるし、逆に今まで受けなかった仕事を受ける可能性もあるわけです。
より自由な立ち位置で
今までだと「とりあえずやってみよう。もしかしたら自分に向いているかもしれない」という感じで「まずやる」ことを優先してきました。
しかし、さすがに50を過ぎてくると、「石の上にも三年」というわけにもいきません。残された時間がそれほどない以上、いちいち試している時間は私にはないのです。結果的に失敗はしてもいいのですが、向き不向きが分かるまでの試用期間に充てる時間は、今の私には残されていないのです。
これから良きにつけ、悪しきにつけ起こることは、多分今の積み重ねにある先にあるものですから、おそらく気の向くままに簡単に引き受けられるものではないでしょう。違和感なく自分の自由が侵されない範囲でできることがあるならやるし、なければやらないだけです。そこは譲れませんし、譲ってはいけないと思います。
自分の自由を守るために生きるという明確な目標があるからこそ、私は命を投げ出すことなく、かつ稼げなくとも卑屈になる必要もないのです。