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怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(99) 私が人に合わせることがキライな10の理由(9)

小学生の頃、私は室内で遊ぶのが好きな子でした。しかし昭和の時代には「子どもは外で遊ぶものだ」という固定概念が世の中を支配していました。確かに適度な運動は必要ですが、趣味嗜好は先生や親が指図してどうこうできるものではありません。しかしながら今でも教室に一人でいる児童に先生が「皆と外で遊ぶよう」声をかけることがあるそうです。

もの書いたり、描いたりするあなたにはお分かりいただけるかもしれませんが、図書館のような完全無音の場所より、適度にざわついた教室のような空間というのは、逆に作業に集中しやすかったりもします。今私が仕事しているコワーキングスペースなんて完全に理想の教室みたいなもんで、本当にこれ以上ないくらいにデスクワークが捗ります。

理想の教室にいると不思議と作業している本人は意外と孤独感を感じていないものなのです。ところが集団で遊ぶことしか楽しみを知らない他人には「ひとりぼっち」にみえるわけです。確かに人間は一人では生きていけません。しかし過度に集団により過ぎるとバランスを崩します。それほど集団に依存しなくても楽しく過ごせる術を知る人間にとっては、先に述べたような先生の声がけは余計なお世話なんですよね。

で、周りがそうやってぼっちへの背徳感を煽れば煽るほど、ひとり上手な私なんかはその快楽に溺れていくので、かえってぼっちやオタクを拗らせる結果にもなりかねないのです。実際私が50をこえてなお、オタク道を邁進していられるのは、やはり小さい頃に禁じられた遊びをやっている背徳感の快楽が忘れ難いから、と感じているからです。実際私の甥や姪をみていると、やりたい時にしたいことをしてると、自然と年齢相応の人間に育っていくもんだな、と感じているので、頭ごなしになんでも禁止、禁止と声高に押さえつけるのは、必ずしも子どものためにはならないのかもしれません。

じゃあ、どうしたらいいかというと、一人で遊んでもいいし、遊ばなくてもいい、あるいは別なやり方を選んでもいいという主体的な生き方こそ勧めてあげたらいいんじゃないでしょうかね。

集団に対して極端におもねることなく、自分のしたいことをしていると、人間は変にゆがまないんではないでしょうか。それを最近私は痛感してます。とはいえ、今までの自分もこれからの自分も否定する気は一切ないですけどね。今までのことは今までのこととしてこれからどう生きていくかが大切なのですから。










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