怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(159) 自分の問題と向き合うための10の闘い(49)私は誰の人生を生きているのか?⑨
生より意識しはじめた死
今回は人生のゴールについて考えてみたいと思います。
人の生が人生のスタートならば、ゴールは死ということになります。これは生きとし生けるものには、等しく与えられたものです。歳を経てくると、生よりもむしろ死に対して思うところが増えてきたように思います。
人生の主役として、私が迎えるであろうラストはどうなるのか?死にたい人間であった私はいかにして死ねるか?ばかりを考えて生きてきました。
考えて生きてはきたのですが、死にたい人間であったが故に、死に対しては全然恐怖感を感じていませんでした。
しかし、親の介護をはじめてから、死がはじめて主観ではなく、客観視するようになってきた感じがしているのです。それに伴って、私の死生観が変化しつつあるようになってきたようにも思います。
死にたいか、生きたいかといえば、昔ほど死にたくはないけど、積極的に生きたいという動機もないんですよね。楽してゴールまでたどり着けるならば、こんなにありがたい話はないのですが、どうもそれはなぜか許されていない感じがするんですよね。
孤独より安らぎ
となると、生きる上でなるべくストレスフルな生き方を選ばないようにしないと、シンドイだけということになります。独りでいるのは、非常に楽ではありますし、むしろ孤独は好きなのですが、あまり孤独ばかりだと、生きてて無味空虚な感じがしないでもありません。
今迄はその無味空虚を感じなくして、なかったことにしてきたので、問題になりにくかったのです。
とはいえ、生死というのは生きている限り無縁ではいられません。私の好きなプロレスは、選手が自らの生死をかけて闘うスポーツエンターテインメントです。それ故に、選手の生命につながる怪我や、事故死はわが事のように胸が痛みます。
ところがこと生死に関しては、我が事や、我が肉親のことになると途端に客観化してしまう癖があるのです。四半世紀前に亡くなった祖母の葬式の時も、胸すら痛みませんでした。
その時は、自分で自分を「冷たいやつだ」と責めていたのです。しかし、今では「感情を感じないようにしているんだ」という私の心の癖を理解しているため、以前のように責めることはしていません。
だからこそ、主役として歩んでいく人生に潤いが欲しくて、精神的な支えを探すようになったのでしょう。
プロレスでもアニメでも映画でもない「支え」とは何か?答えはまだ見つかってはいませんが、きっとみつかるような根拠のない確信はいだいているのです。不思議な気はしますけどね。