怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(154) 自分の問題と向き合うための10の闘い(44)私は誰の人生を生きているのか?④
2017/08/08
同じ趣味の人は果たして私の伴侶になりえるか?
今回は同じ趣味の人は果たして私の伴侶になりえるか?という話をします。この話の前提として、自分の人生の主役を私がつとめるんだ、という認識が私にできてないと、フワフワした内容になりかねません。
従って、とりあえず今抱えている「だれが自分の人生の主役なのか?」という課題は、一応解決した体で、この先はお話していきます。
さて、冒頭の話に戻りましょう。結論から言うと、同行の士は私にとって、恋愛対象にはなりません。最も濃密な関係性を言葉にするなら「同志」というフレーズが一番シックリきます。
言い訳するつもりはないのですが、これは私が何もしないで決めつけているわけではありません。
そもそもこの結論に思い至るまでに、私はそこそこ失恋体験をしてきました。正直ぶっちゃけ伴侶どころか、今まで彼女の1人さえ出来たことがありません。
そんな私が「なぜ自分には異性のパートナーができないのか?」と真剣に思い悩んだ結果、一つの仮説にたどりつきました。
同志は伴侶になりえないのでは?
それが「同志は伴侶になりえないのではないのか?」という疑問でした。そして自分と向き合い自問自答した結果、今までの私が重ねてきた数々の失敗は、そのほとんどが「同志や自分に似たタイプの異性を好きになっていた」からではないかという結論を導き出したわけです。
「同好の士と恋愛関係になれば、同じ話題で深く共有できて、盛り上がれるのではないか?」と、当初私は考えていました。しかし、同好の士とは別に恋愛関係でなくても盛り上がれるし、むしろ恋愛感情のない方がフラットに付き合えるし、そちらの方が自分としては心地よかったのです。
そうなると恋愛が邪魔で疎ましくて、だんだん嫌いになっていきました。でも私の中で、本能的にはパートナーを求めているため、常にモヤモヤして生きてきたのです。
そう考えてみると、私はどういう人とならパートナーになれるのか、ということを、これまであまり深く自分と向き合ってきませんでした。
しかし、よくよく自分と向き合っていくと、本当は同好の士ではなく、自分という存在自体を無条件で肯定してくれる存在なんだな、ということに気づいたのです。
趣味や嗜好の共通項を求めなくてもいい
だから無理に趣味や嗜好の共通項を求めなくてもいいんだ、ということですね。おそらく、趣味や嗜好が似通ったにしても、その人と私は違う人間です。近いからこそ譲れない部分もあります。そこが往々にして、人間関係では、火種になりかねない部分です。
で、あるならば、ある程度理解のある方が、許容してくださるのが一番理想的かな、と思います。
正直、今もなお私の中には自分の人生の主役は自分でない感覚が巣食っているので、人様に自分の理想をおしつけるのはあまりよい気持ちがしません。
でも、やはり自分の人生ですから、自分の人生の主役になるためには、この問題は避けて通れないのではないかと、思っているのです。
こうして書き出してみると、いろいろな気づきも生まれました。だからこそ、未解決の問題であるにも関わらず、敢えて記事にしてみた甲斐があったともいえますね。