怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(150) 自分の問題と向き合うための10の闘い(40) 苦手だけど本能と結びついている恋愛と結婚⑩
人生の主役は誰?
今回は人生の主役はだれなのか?というお話です。
恋愛するということは私の軸の中では、自分が主役にならざるを得ないわけですが、それが非常に小っ恥ずかしいのです。言い換えるなら身分不相応な感じすらしているのです。フィクションの主人公ならまだしも、リアルに生きているこの私ですからね。
どう想像しても、私には、自分がラブロマンスに相応しいというイメージができないのです。そもそも「私はここにいてはいけない」感覚が強いのですから、主人公云々以前に舞台に立つ資格すらないとさえ思えてしまうのです。
さりとて、自分の人生の主役に代役は立てられません。私の人生の主役はほかならぬ私なのです。だから苦しくてモヤモヤするんですね。
恋愛というのは本能と結びついている分、分かち難いものです。しかし人間は本能の赴くままに、自らの欲求を満たすことはできません。
ましてや恋愛や結婚は相手があって成立するだけに、へたしたらこの欲求は、満たされないまま、一生を終えることもありえるでしょう。ですから、恋愛しなくても代わりになるもので欲求を昇華させないと、生きづらさに繋がるわけです。
趣味は本能の代替手段か?
とはいえ私個人に、恋愛や性欲を抑える代替手段として、プロレスやアニメに血道をあげている感覚はこれっぽっちもないんですけどね。
もし欲求の代替手段をプロレスやアニメにしているのであれば、多分趣味や生き甲斐にのめり込むほどもやもやした感覚が残ってたまっていくでしょうね。
プロレスやアニメを欲求の代替手段としてだけの存在にしたくないのは、自分が恋愛体質でないことを重々承知しているからかもしれません。
もしも私が簡単に恋愛ができるのであれば、生き甲斐を別に設定する必要はおそらくないでしょうしね。
ちょっと言葉が過ぎるかもしれませんが、かつての私は「恋愛は暇人がやるもの」という固定観念がありました。これは、多少やわらいではいるけれど、未だに私の中では燻っている感覚です。
恋愛=暇人のやるもの、というのは私の偏見にすぎません。一般的に自分の時間をさいてでも、パートナーのために、自らの子どものために生きるのが自然の摂理であり、私はそれに逆らって生きています。逆らって生きているからこそ、偏見と知りながら、意を唱えていたのかもしれません。
しかし、出来なければ出来なくてもいいんだ、と思うと、それほど対向意識むき出しにして噛み付く必要もないかな、とも思います。
書き出してなおモヤモヤする問題
人間が十人十色であるように、やはり結婚や恋愛に向かない人間もいると思うんです。でもそんな人間にも何らかの肯定的な存在理由があって、生かされていると私は思っています。
それをさがしながら…でも、もしかしたら、生きているうちには見つからないかもしれないけれど、私は「何のために生かされているのか?」を問い続ける人生って、そんなに悪くないんじゃなかろうか。そんな気がしているのです。
とはいえ、それは今まで散々やってきたた妥協の産物でしかありません。これだけだと感覚的にモヤモヤした感じが残るだけなのもまた事実なのです。
自分の人生の演出家であり、脚本家でもあり、主役でもある自分がいかにして違和感なく主役をつとめられるか?
それが私の課題なんだろうなあ、と思っています。
それにしても、これだけ書き出してなおまだ私はモヤモヤし続けているのですから、つくづく根深い問題だなあ、と呆れるほかありません。それでも自分の根幹に起因する課題のひとつであることは間違いなさそうですね。この問題とはこれからも向き合い、闘い続けていくことになりそうです。