怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(49) くたばれ!まちおこしその⑨
2016/10/28
まちおこしに関わるイベントでお手伝いはしてきましたが、イベント自体はやりませんでした。夢のためならどんな艱難辛苦も造作なくできる、これがイベントをやるにあたり必須であると私は考えます。わずかでもやらされている感があるならば、すべきではないし、お手伝いにとどめおくこと。これが最低条件だと私は考えます。
そもそもまちおこしのために人柱が必要ならそんなまちおこしなんか必要ありません。まちのために誰かが犠牲にならなくてはならないなら、そんなまちをおこしても意味なんかありません。あくまで私は個人の幸せありきで物事を考えるべきだとおもいます。まず自分がどうしたいのか?等身大の自分ができることは何か?そこからスタートしないで、いきなり派手な打ち上げ花火をあげて、イベント立ち上げを急がせるやり方はもはや破綻しかかっています。イベントありきのまちおこしは、私からすると、死に体の身体に増強剤をぶちこんで、延命措置している末期患者の姿にだぶる感じさえします。
万単位の集客が見込めるイベントは確かに見た目は魅力的でしょう。しかし、イベントのプロならまだしも、夢だけ語っている素人がいきなり扱うには、あまりにデカすぎて身に余ります。やはり打ち上げ花火よりは、線香花火でもいいから、火のつけやすい種類からはじめてだんだん大きくしていくやり方があってもいい気がするのですが、どこのまちのリーダーもなぜかドーピングを打ちたがるように私には見えます。
人間に終活があるのだったらまちにも終活があってもいいと思うのです。栄枯盛衰といいますが、人間の集合体であるまちもいずれ衰退していくのは自明の理でしょう。まちにも寿命というものがあります。いたずらにまちの寿命を引き伸ばすだけがまちおこしでもありますまい。どういう終わりを迎えるのかまで考えたまちおこしというものには残念ながらお目にかかったことはありません。実は終わりを決めるというのはとても大切なことでもあります。終わりが見えていないから、赤字になっても黒字になっても組織がごたごたするのです。そういう意味では終わりを思い描けないリーダーはまちおこしにはいりません。ただ入り口で派手は花火を打ち上げたいんだったらあほでもできます。問題はそのイベントが終わった後のことを思い描けるかどうかで、リーダーの資質も変わってくるでしょう。またイベントに関わる人間の一人一人が自分のイベント後を思い描くことをしていれば、ごたごたも少なくなるかもしれません。そうした点が習慣化されないうちにいきなりドーピングを打って走り出すのは、無策無謀といわれも仕方ないでしょう。
なぜドーピングだの、延命治療だのいっているかというと、終わりを見据えて、自分は本当にどうしたいかを考えている人がリーダーにも、まちおこし関係者にもほとんどいないという風にしか私には見えないからです。これは危惧すべき状況ではないかと思うのです。やりたいことが明確に見えてなくて、今の自分の力とかい離していないかどうか?今の自分にとって見切り発車していいのかどうか?自分とじっくり向き合おうともせず、やればわかるさ、で一歩踏み出して痛い目にあうことだけがわかったという結末になるのはよくあることです。少しでも自分の中に躊躇する気持ちがあるのであれば、それはまだ踏み出す時期ではなかったということになります。そこに目をつぶって飛び込んでいくのはよしんばうまくいったとしても無謀としかいいようがないですね。
こういうと大概「やってもいない人間がやった人間のことをどうこういう資格はない」という反論が返ってきます。しかし自分の無意識で納得してないものを意識で振り切って行動したとしても、自分の無意識は決して味方になってくれません。意識に「行動する正義」があるのなら、無意識にも「行動しない」正義があるのです。そこを無視したうえで無謀な行為に出ることが果たして本当に正しいといえるのでしょうか?どうせなら十分自分と向き合って、自己一致したうえで事を起こせば、それほど後悔することはないでしょう。しかしやり切った後に色んな不満が噴出するのであれば、それは自分の無意識が協力してくれていない証拠ではないでしょうか?本当にイベントをやりたかったのは、自分の総意だったのか?本当はどうしたかったのか?イベントは本当に自分がやりたいことなのか?やらされている感が自分の中に本当にないのか?きっちり向かい合ったうえで、判断すること。それが行動する前に必要なことなのではないでしょうか?