怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(43) くたばれ!まちおこしその➂
2016/10/28
まちおこしは大概独りではできません。チームあってのまちおこしとかんがえてよいと私は思います。人間でも動物でも群れをなします。群れを作るというのはある意味本能的で自然なことなのかもしれません。以前の私には自分の価値がないから集団に属してはいけないという感覚がありました。価値がないからハブられ必要とされてないのだと。でも最近は「自分が本当に望む利益を得たいから自分からひとりになろうとしているのではないだろうか?」と思うようになってきました。では私が望む利益とはなんでしょうか?それはずばり自分の時間を持つことです。それもできるだけ長く、です。確かに以前の私でしたら、そのまま引きこもっていたらいずれ死んでいたでしょう。しかし20年にわたる社会人経験でそれなりのコミュニケーションスキルを身に付けた私は、困ったときには外に出むいていける行動力と共に、社会というチームにつかず離れずに生きていられます。このつかず離れずという距離感が心地いいんですね。
四六時中誰かが自分のプライベートエリアにいられたら、落ち着かなくて仕方ありません。正直心の準備ができていないときに、ずかずかと他人が私のそばに寄ってこられたら内心ではかなり嫌な気分を味わっています。チームにい続けるということはその不快感を飲み込んだうえで、より大きな利益を得る前提がなかったらとても無理ですね。だから私は家庭を持つということに対してそれほど本気にもなれないのです。やはり一人のよさを享受しすぎて50数年生きちゃいましたからね。いまさら不自由な義務感を背負って生きろというのは、ちょっと無理があるかなってところです。
日本人では特に顕著ですが、大概所属している会社なり組織なりの○○です、と名乗ることが多いと思います。個人の前にチームや集団が先にありきな感覚をおかしいとも思っていないんですね。これだけ悪口をいっている割にまだ完全に町おこしから足を洗いきれていないんですが、実をいうと私が所属しているコミュニティーの名前を出して人前で名乗ったことは数えるほどしかありません。普段はどこにも所属していない、何物でもない自分として名乗っています。ですから基本は病人、もしくは無職です。まあ暇人とかもいいなあと思っていた時期もありましたけど、現在は暇かっていうとそれほど暇でもなくなっているので、病人か無職でいいと思っています。
さて、まちおこしにチームは不可欠とお話しました。なぜチームでないといけないのか?それは個人のやれることなどたかが知れているからです。できないことの方がむしろ多かったりするんですよね。だからできない分はできる人に補ってもらうのがチームの役目です。では自分のやりたいことが、他人に補ってもらわないとできないことなのか?といわれると実はそれほどでもなかったりします。それほど大それた望みを持っているわけでもないんで、まちおこしとかでよくありがちな、大勢の人が動くビッグイベントとかには全く関心がないんです。私自身がいないとなりたたない、でもそれだけだと私だけが苦労するんで少し楽をさせてもらうためにお手伝いお願いしますね。その分、ほかのイベントのお手伝いはしますよ、というのが私が今関わっているコミュニティでの立ち位置です。だからそれ以上のかかわりを求められた場合、私はいなくなるという選択をするでしょうね。いずれそういうときは来るかもしれません。
つかず離れずという感覚は、0か1かでも白か黒かということでもありません。どっちでもないし、どっちでもあるという感じでしょうか。子どものころに招かれた誕生会から急にフェードアウトした体験が私にはあるのですが、この時は「ここにいちゃいけない」という感覚に苛まれて自分から存在を消しにかかりました。しかし、今は違います。集団にいながら私の立ち位置は自由そのものです。見た目はぼっちとそう変わらないので、やたら気にかけてはもらえるんですが、話したくないときは話さない、混じって騒ぎたいときは騒ぐだけのことなんですね。それでも群れから離れて一人でいる私の姿というのは、もしかするとあなたにはにとっては本能的に相当違和感があるのかもしれないですね。あれはでも、自分の中ではこれも自分だと思っているので、それほど不自由を感じているわけではないのです。ですから、私の苦手なパーティーに出ているときはあえて一人になれる時間を作って、群れからつかず離れずの距離感を保つようにしています。これも20年の社会人生活で得た処世術の一つですね。