[追憶のscreen]カラーテレビが来た日
*山口局の放送が一切見られなかった
私が生まれた頃ならまだしも、物心ついた時にはテレビは家にあった。ではなぜこんな表題にしたのか?
実は「カラーテレビ」が家にやって来た日というのが正解。カラーテレビ自体も東京オリンピックを経て既に各家庭に普及していたのだが、うちの場合は使えるものは使い切る風潮があったため、世間的にはかなりよそ様よりは遅かったはずである。
それまで家にあった白黒テレビにはUHFを見られる機能がなく、しかも自宅の後ろには当時にしては珍しい高層アパート(エレベーター付き!そんな建物自体が珍しかった時代である)が建っている難視聴地域。
こういう事情で住んでいながら山口局の放送が一切見られなかった。だから同じ県内の親戚の家でテレビをつけるとまるでよその土地にきた気分になったものだった(県東にいくと広島局の方も入るので余計にそう思えたというのもあるが)。
後に近隣に市営住宅が建ち並ぶことになり、難視聴地域対策として共同アンテナが設置されて、クリアに見られるようになったのだが、それはずっと後になってからの話。
こんな環境でも両親は別に困ってはいなかった。彼らは今でもそうなのだが、国営放送さえ映れば特に他はどうでもいいという人種だったからである。だからとにかくやたらと国営放送は小さい頃から見せられたものである。
確かにおもしろいものもいっぱいあったし、今の私にとっても影響は決して小さくない。だが、何か窮屈だったこともまた事実ではあった。
*よそんちに行き来する様になった時期
ではカラーテレビがくる前はどうしていたか?近所に見たいテレビがあれば見せてもらいに行っていたのである。私の住んでいた所は長屋所帯。後ろにそびえるビルは大地主の持ち物で横にはそのでかいお屋敷があった。
もといた家というのは、昔そこの持ち家だったのだが、後に払い下げられたものだった。他のお宅もだいたい同じ様な事情だったはずである。想像するに戦前から建っていたんじゃなかろうか?空襲からは免れた地域だったようだからである。
近所に同じ年の子供はいなかったがちょっと年下の男の子がいて、彼の家でよく「バロム1」を見せてもらっていた。彼の家にはカラーテレビがあり、当然UHF局も見られたからである。バロム1は当時自分の家では見られない番組だったのだ。
彼のお父さんは子供会の世話人でタクシーの運転手をされていて、昼間はよく寝ていたため、遠慮がちに遊んでいた思い出もある。そういえばよそんちにはじめて行き来する様になったのもこの時期。
「あがらせてもらうときは「おじゃまします」っていうんよ」という母の声は今でも覚えている。そんな感じで、近所の人がテレビのある家に集まって見るという、昭和40年代後半にしては特殊な体験をしていたという事になる。
長屋所帯という特異な環境がそうさせてくれたのだろうけど、これがかなり特別なものだったということは後々知ることになった。