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[映画鑑賞記] 宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第五章「煉獄篇」

2018/12/03

SFアニメの金字塔「宇宙戦艦ヤマト」をリメイクした「宇宙戦艦ヤマト2199」の続編。1978年に公開された劇場版「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」のストーリーをベースに、作家・福井晴敏がシリーズ構成を務めて新たな物語を紡ぐ。全7章で劇場上映されるうちの第5章となる今作は、第15~18話の計4話で構成される。伝説の惑星テレザートへ到達したヤマトの前に、かつての仇敵デスラーが姿を現し、ヤマトはガミラス旧体制派が集ったデスラー艦隊との交戦に入る。そんな中、古代たちのもとへ駆けつけたキーマンが、驚くべき行動をとる。一方、ガトランティスでは新たなサーベラーが目覚め、本格的な地球侵攻作戦が開始。あらゆる文明や生命を殲滅しようとするガトランティスと、旗艦アンドロメダを中心とした波動砲艦隊が激突する。(解説は映画comより)

「さらば」から40年

よくよく考えてみたら中学2年の時に初めて劇場で「さらば宇宙戦艦ヤマト」を観てから、今年でちょうど40年。考えてみたら1970年代後半から80年代前半という期間は、ヤマトに999、ガンダムにイデオンなどなどキラ星のごとく名作がでてきた時代だった。

明らかにあの作品群は今の私を形作っているのは間違いない。そうなると今のこの時代にヤマトがリメイクされる意味があるのではないか?とわたしはおもう。40年たち、すっかり老齢になった私の前に、単なるノスタルジーだけで作られたヤマトが出てきてもあまり意味はない。

でてくるなら、中学2年ではない、オッサンの私が見るに値するヤマトでなければならない。さらば宇宙戦艦ヤマトの送り手は戦争の傷跡を知る世代。その世代が、戦争を知らない私たちに問いかけた作品である。

しかし、ヤマト2199や2202はかつて私のがわにいた「元・受け手」側だったかつての少年少女たちが「送り手」になった作品。つまり「戦争を知らない世代」から「戦争を知らない世代」へ贈られるヤマトなのだ。

しかも、かつて受け手だった世代の一部は、あの空前のヤマトブームをリアルタイムで知る世代でもある。従ってヤマトの偉大さを肌身で感じて育っている分、いやでもヤマトには真摯に関わらざるをえない。やっつけ仕事にしようものなら、それは若かりし頃に築き上げられた自らの礎を自己否定することにもなりうる。

だからこそ、今の時代からすれば穴だらけのオリジナルヤマトを、あれほどの手間をかけて現代でも通用する物語にした。いや、する必要があったのだ。

関門地区では初お披露目

ヤマト2202は、1章から4章まで上映がなくて、5章から突然上映がスタートするあたりがいかにも北九州らしいやり方だな、と皮肉の一つもいいたくなるのだが、かつて第7章だけ劇場公開されたガンダムUCもまた福井晴敏さんが関与している。その時のことをふと思い出してしまった。

まあ、福井さんのせいというより、明らかにオタク層に寄り沿っていない北九州が悪いのは明白なんだが、それでも下関みたいに完全スルーを決め込むよりはまし。

ちなみに前作ヤマト2199は一度も劇場ではみていない。みていないという事は、北九州、下関近辺では上映されていないわけだ。だから事実上、「平成ヤマト」では、ヤマト2202第5章が、関門地区では初お披露目となる。

2199からはじまるリメイクが単なるノスタルジー、単なる金儲け、単なる仕事ならば、こんな難しいことをわざわざやる必要はない。ましてや原作権問題で裁判沙汰にまでなり、手垢にまみれたヤマトをわざわざ引っ張り出してきたところで、思い出補正までされているオリジナルヤマト原理主義者からは、体良く非難されるのがオチである。

だが、その困難さを知りながら立ち向かったのならば、それは賞賛して然るべきだと私は思う。何を隠そう私もガチガチのヤマト原理主義者だし、そもそも松本零士デザインでないヤマトなどヤマトではないと今でも思っている。無論、オリジナルへの思い出補正だってバリバリかかっている。

「愛」に対する解釈の違い

そんな思いがあるから、私は西崎義展プロデューサーが生前最期に手がけた「復活編」は未だに見る気さえないのだ。そんな私が信頼したヤマト2199は素晴らしい作品だったし、おそらくヤマト2202も素晴らしい作品になるだろう。

だが、他の原理主義者と私では一つ捉え方に決定的な違いがある。それはさらばやヤマト2202の核になるテーマ「愛」に対する解釈の違いである。副題にある「愛の戦士たち」は「さらば宇宙戦艦ヤマト」にもついていた副題でもある。それをわざわざ持ち出してきたという事は、それなりの覚悟をもって作っていることは想像に難くない。

ところで、40年近く何度も見てきた「さらば宇宙戦艦ヤマト」で、私は一回も泣いたことがない。同じ悲惨なエンディングが描かれた「イデオン」ではボロ泣きしたにも関わらず、だ。それは私が終始一貫して「愛」に対して懐疑的な人間であるからにほかならない。

個人的には80年代アニメパロディ作家として活躍されていたゆうきまさみさんの一連の作品の中で、「宇宙愛」をもじった「宇宙受」(うちゅううけ)という言葉のほうがよほど腹落ちしたくらいにはひねくれていたのだ。それは今もそんなに変わっていない。

とはいえ、さすがに中二の時の私と、40年歳とった私では「愛」の捉え方も変質しているし、青臭くなくなった分、経験によって思い込みが増幅された部分もある。それでも私は「自己犠牲による愛」は欺瞞だと思っている。それは「さらば」に感じた矛盾だったし、「ヤマト2」の最終回に感じた矛盾でもあった。

ヤマト2202はそのあたりもうまく咀嚼していて、愛がもつプラスとマイナスの両面を時間を割いて描こうとしているようにわたしには感じられた。ただ、パンフレットに書いてあった福井晴敏さんの文章は私が見る限り「かつて少年だったおっさんの解釈する愛」であふれていたので、あれが額面どおりに画面に滲み出すぎると、女性客は敬遠する可能性もある。私が鑑賞した6月1日は劇場指定のメンズデーでもあった。もともと金曜は男性客が多いという事情もあった。

だが、ヤマトの前に鑑賞したゴジラには高年齢層ながら女性客もちらほらいた。対するヤマトは男性客で、しかも私と同世代の人間がたくさん!この差はいったい何だったんだろう?

おっさんのためのヤマト

一例を出すと、加藤三郎が自身の子を守ろうとするくだりは既婚のおっさんならグッとくるシーンだと思うが、そうでない客層は想像するしかない。独身ながら男性であり、なおかつ愛に関しては懐疑的だという点はあるにせよ、同じ男性からみてあのシーンは「わかるけど、のれない」場面だった。

だから、「あれはオッさんが語る愛」がマイナスの作用に働いた結果だと私は考えている。女性目線ならまだ少し違った形で描かれていたかもしれない。とはいえ、物議を醸し出した実写版宇宙戦艦ヤマトの脚本は、山崎貴監督の奥さんであり、同じく映画監督の佐藤嗣麻子さんが担当されているが、作品に女性目線を感じられたかどうかは、私的にはかなり微妙だった。だから物理的に女性をスタッフにすれば解決する問題というわけではない、ということになろう。

機動戦士ガンダムと決定的に違うのは、ヤマトがガンダムよりオッさん臭い題材であることだろう。おそらくこれは間違いないと思われる。さらば宇宙戦艦ヤマトでは、ガンダムのキャラクターデザイナーであり、ガンダムオリジンの総監督・安彦良和さんが参加されているが、ガンダムの女性観はどちらかというと富野由悠季総監督の作家性によるところが大きいように、私は思っている。

要は作品を生み出した作家性の違いであり、オリジナルヤマトを尊重したリメイクするということは、勢い男性寄りの流れになることは避けられないだろう。

いいとか悪いとか以前に、ヤマトという作品は女性向けに作ることが難しい題材なのだと思う。だとしたら極論だけど、いっそ女性向けという視点はばっさり捨てて、「おっさんのおっさんによるおっさんのためのヤマト」を作り上げた方が潔い感じがするのだ。もしも欲張ってさらなる女性客をも取り込もうという魂胆が見え隠れした場合、かえって女性客は鋭いのでそうした思惑を察知して、かえって劇場に足を運ばなくなるおそれすらあるのではないだろうか?

これは私がたまたまメンズデーに観に行ったから思いついたわけではない。TV版宇宙戦艦ヤマトに出会ってから今日にいたるまで何となく感じてきたことが、たまたま第5章を見たタイミングで明確化したに過ぎない。

もちろん、2199にしても2202にしても最大限、女性への配慮はなされているし、先に例に出した加藤三郎のドラマはその副産物でもある。だが、オリジナルヤマトをリスペクトしながらのリメイクというバランスからすると、これ以上女性視点で物語を構築するのは非常にむずかしいかと私は思う。

福井晴敏さんがパンフに寄稿された文章は愛を知らない私にとっても、非常に納得のいく内容だった。あれがブレなければ2202はきっと後世に残る作品になりうる可能性があると信じている。あとはこの方向性を作り手が信じ続けて、最後まで描き切る事だろう。

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