怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(34) 私が博愛主義をキライな10の理由(4)
2016/10/28
私はよく信頼というものを信じるか、信じないかの2択だと考えている事が多くあります。あなたはどう考えますか?人との信頼関係は小さなピースを積み上げていくことだとも言います。ですから本当は出会ったばかりの人を評価するというのは、その人のことがよくわかっていないので、するべきではないと思うのです。しかし私の場合、過去の失敗経験が、頭をよぎる事も多く、また同じ事になるかもしれないと不安に思うことがたくさんあります。事実は今そこにいる相手とは関係のないことなのに、です。
相手を評価してしまうと、そこからは評価の内容に合ったことばかりを拾ってしまいます。そしてやっぱり人を信じられないという結果が出来上がる、というのが人間不信のメカニズムです。相手から信じられない理由を拾っていき、自分で信じられない人間像を作り上げてしまうわけです。この人はこういう人だろうと決めつけないことは、カウンセリングでもとても大切な考え方です。ですから仕事モードの時は決めつけには一番注意しています。しかし、そうでないときに私はちょいちょいこの無駄な努力というものをしてしまうのです。
とはいえ出会ったばかりの人のことを信じてしまうのは、確かにリスクが大きいことです。では最初から信じないのかといえばそうではありません。信頼を2択と考えてしまう裏には、不安が隠れていると考えます。自分自身に不安がある。だから相手に任せたいそんな弱さがあるように感じます。不安に急かされ、答えを急いだ結果が信じるか信じないかの2択となってしまいます。
リスクの大きな選択では、それに掛ける期待も大きくなるでしょう。しかし、そもそも相手はその期待に答えてくれるとは限らないのです。あなたが相手を信じるかどうか迷っているように、相手もあなたを信じるかどうかを迷っていることが多くあるはずです。もしあなたから一方的に大きな期待を掛けられては、相手は重荷に感じます。それでは相手が逃げ出してしまっても仕方がないでしょう。それが身勝手というのは重々承知しているのです。相手に期待をするのであれば、まずは自分を信頼してもらうことが必要ですからね。
ところがこの信頼というやつを築くというのがなかなか難しいのです。時間もかかりますしね。で、焦ってついついまだ信頼を築けてない相手に対して、期待をかけてしまい、その結果が無残に終わるというのが、私の人間不信のメカニズムです。ここまでわかっていてもなお、なぜ人間不信の輪から抜け出せないのかというと、実は人間を信じないことで私が得ている利益があるからです。たとえば「人の都合に振り回されない」「自分だけの時間が持てる」「誰にも邪魔されない」など。
もっといえば慣れ親しんだ感覚というのは今どれだけ自分に不利益な結果をもたらしていても、それを変えたくないくらいになじんでいます。これを変えようとすると自分の中でものすごい抵抗が生まれます。それはとても苦しいことです。ですから変えたくない私が「人間嫌い」を連呼しだすのです。これが不安の大元です。変わってしまった自分というのは慣れ親しんでいない分、どうなるのか不安なわけです。できたら変わりたくないと私は思っているので、もしかしたら変わったほうが明るい未来が待っているかもしれないとわかっていても、変わらずにいる。その結果が不安という形になって表れ、まだ人間関係を十分に築けていいない相手を勝手に値踏みして、勝手に不安を感じて「やっぱりこの人とは縁がなかったんだ」と勝手に自分でシャッターをおろしてしまうのです。
人間嫌いとは全て自分勝手な決めつけの産物です。でも私はもともと自分勝手な人間です。その不安にも実際かつていじめらてたという根拠があります。ですから不安を感じる自分を否定する気もありません。そもそも信頼できることも、信頼できないことをしてくるのもすべて他人です。私ではありません。したがって、私は今後も人間不信を標ぼうし続けるでしょう。なぜなら私は八方美人になることをやめて、間違った博愛主義を自分の中からたたき出したいからです。自分が楽になるためだったら、万人と信頼を築くような無駄な時間に労力を費やすより、自分の中の問題を解決していった方がよっぽど有益です。その結果人間嫌いという反応が変わっていたのあればOKだし、そうでなくても今までと変わらないのですからそれほど不都合ではありません。つまり人間嫌いがいけないことだと考える思考自体が、本当はよくないのです。