怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(1)私がワンピースをキライな10の理由その1
2018/03/02
毒吐きが必要な理由
このブログは基本自分が毒吐きたくて書いてます。毒は自分の中にためておくと、だんだん大きくなっていってある日、暴発します。
あなたのそばにはこういう方はいませんか?普段温厚そうにしている方が、なんかのきっかけで突然物凄い勢いで怒り出したりすること。これもおそらくは本人が不平や不満をため込んでため込んで、どうしようもできなくなった時に、堪えきれなくなって爆発してしまったのではないかと考えられます。
さて、そんなわけで、今回から私の「毒吐き」にしばらくお付き合いいただこうかとも思います。第1回目はマンガ・アニメともども国民的な作品にまでなった「ワンピース」です。では「ワンピース」のどこに毒を吐きたいのか?
その前に、そもそも私は人間が嫌いです。大嫌いです。他人は自分に害をなすと私は思いこんでいます。それは自分の体験に基づくものです。では具体的にこれから話していきましょう。ざっくり分けると私に害をなす「他人」は3種類います。
(1)両親
(2)学校
(3)世間
(4)ワンピース
親を敬うのは無理!
まず(1)の両親。自分のやりたいことはとことん押さえつけられ、やれなばならないことばかり増やす自分の親が憎くて仕方ありません。これは今もそう変わってはいません。私はしがないサラリーマンの家庭に長男として生まれました。
サラリーマンなんで武家とか貴族の家柄でもないわけです。でも幼いころから家を継げということは口を酸っぱくしていわれてきました。この家の何を継ぐのか?家を継いだら私は幸せになれるのか?そのことには一切触れず、私を家を継がせるための道具としか見てない父、一回も下の名前で私を呼んだことのない母。こんな人たちを親として敬うのは無理です。表向きは孝行息子を演じてますが、正直もうかなり疲れきっています。
自分で稼いで経済的に自立できるものであれば、こんな親との生活は今すぐにでもやめてやりたい。そう思いながら、そうできない自分にも腹が立ちます。
続いて(2)の学校。幼稚園はまだましでした。趣味を同じくする友人がいたからです。しかし小学校にあがるとその光景は一変します。皆外で遊ぶ中、休み時間に教室にいるのは私一人でした。それならそれで放っておいてくれればよかったのですが、ひとり輪に加わらない自分を他人は矯正しようとしてきました。
誘うとかそういうことではありません。暴力で、です。私はある時点から気が付いたらいじめの対象になっていました。来る日も来る日も襲い掛かる暴力、だれも味方にならない学校の中で、私はますます孤立していきました。それは中学生まで続きました。そして高校進学時、私は一つの決断をします。
今までの逆の自分に
「今までと逆の自分になろう」と。誰とも話さない、笑わない、すぐ泣く、弱虫・・・・これらと反対の強い自分になろうとしました。そこから私は泣かなくなりました。弱みを人に見せまいと必死になって生きてきました。私は強くなりました。表むきは周囲にたくさん友人もできました。しかし心の穴はあいたままでした。
私はやはり学校が大嫌いです。その学校自体にも憎しみがあります。卒業後、ほとんどの先生、同級生とは連絡もとっていません。あえば、今度はこっちが暴力をふるうにきまっているからです。
また、自分に暴力を振るわなくても、自分が自分でないものに変わらない限り、自分を受け入れない同級生には、一片の思い入れもありません。
それももしかしたら、高校時代だけは違っていたのではないか?そう思って実は一度だけ同窓会に参加したことがあります。私が二度目の無職になったときです。出席している同級生は高校の時のままリアルな人生を満喫してキラキラ輝いていました。私だけが何者にもなれず、だれとも口をきけず、一人でテーブルに座っているだけでした。やはり、偽りの自分によって来た人間は私にとって偽りでしかありませんでした。
誰にも頼れない
やはり私は誰にも頼れません。いまだに困っても決して困ったとは言えません。なぜならそれをやめてしまうことは強い自分ではなくなることだからです。肩ひじ張って生きてきた自分が一瞬で崩れて、小学校の時のいつ暴力を振るわれるかわからないでおびえながら生きていたあの時代の自分には戻りたくないからです。
そして(3)の世間。世間は私の考えを間違っている、思い上がりだといって非難しました。しかも直接でなく、活字という紙面を使って。考え方も背景も知らないはずの私を一方的に悪と決めつけ非難をしてきました。それがどれだけ私の心を傷つけたかを考えもしない他人は自分の正義だけを振りかざして、私に見えない拳をふるってきました。
とある雑誌に私はとあるアニメ作品の感想を書いて、とあるアニメ専門誌に送りました。30年前の話です。しいてその内容に不備があったとしたら自分の背景を説明しないで「友情を全否定」したことでしょう。
ですからその背景を読み手がくみ取ろうとしなかったというのは、正直無理があるともいえると思います。しかし、断片だけで私の考えを全否定し「思い上がり」だと非難してきたのは、他ならぬ自分と同じものを好きでいたはずの同好の士でした。同じものを好きな人間から暴力をふるっていた人間と同じように矯正されようとしていたのです。
私はすぐに謝罪文を書いておくりました。本当は間違っているなんて思ってもいないのに「間違っていた」と書いて謝罪したのです。まあ、今の時代だと謝ってもさらに個人を追いつめていくでしょうね。しかしこれで、私はますます人間というものが信じられなくなりました。同好の士ですら自分に牙をむけてきたというこの体験は、人間が信じられないという自分の信念に決定打となってきざまれたのです。
助けを求められない
「こう書いて誰かにわかってもらいたいのか?」と思われたかもしれません。しかし、そうではないのです。これは自分が自分にあてて書いている駄文です。自分以外の人間は勝手に読んで勝手に感じてくれればいいのです。だからわかる必要もありません。
私は「うだつがあがらない」といわれています。たまに「大器晩成」ともいわれています。当たり前です。私は誰にも助けを求められません。人を信じていないからです。もしかすると暴力をふるったり、自分を全否定する可能性が0でない人間を簡単に信じることができるでしょうか?もちろん経験上、大人になってそれが極めて0に近いこともわかってはいます。
私は以上のように今も人を信じられません。だから友達も作ろうとは思っていません。これでも昔よりだいぶん丸くなったので、自分の思いのたけを話すことができていますが、知られたらたちまち矯正されるのではという恐怖から、表向きは常に社交的で、明るく、笑顔を絶やさない自分を演じ続けてきました。ですから、もうそれにも飽きてきました。
ワンピースが嫌いな理由
(4)のワンピースというのは、有名な漫画のタイトルです。マンガファンだけでなく、一般的にも支持率の高い作品ですね。しかし私はこの作品が大嫌いです。死ぬほど嫌いです。もうこの漫画には嫌悪しかありません。きれいごとも大概にしろよという胸糞悪さしか感じません。これになびいている人間もはっきりいって信用できません。
たかがマンガ、たかがフィクション、そうです。そのたかがが好きな私だから、たかがでは済ませられないのです。私はマンガが大好きです。将来は漫画家になりたくて投稿していた時代もありました。それだけ思い入れがあるからワンピースがマンガの代表であるかのような扱われ方に我慢がならないのです。
そうはいっても読んでみたら考え方が変わるかもしれないと一巻を手に取ってみてみました。しかし途中で見事に挫折しました。今まで好き嫌いなくマンガに接してきた私がはじめて感じた敗北感でした。今考えるとこれだけマンガが世の中にあって好きなものだけが世の中にあるわけではないはずなのです。
ましてやヒット作だからこそ熱狂的ファンもいればアンチもいて当たり前なのです。そういう意味では間違いなくワンピースはヒットに値する作品だということは認めています。私というアンチがいて、その他の絶対的多数によって支持されているのは事実ですからね。
しかし、このワンピースの世界観を自分の中心にしてしまうと私が息苦しくて仕方ないのです。少なくとも私の周囲からは排除したい。そのくらい嫌なものなのです。でもワンピースで描かれているのは目的も立場も違う人間が一つの船に乗って、自分の夢をかなえるために冒険にでるという世界です。私にはこれがきれいごとにしか感じられないのです。夢はかないません。同じ船にも乗る必要もない。冒険なんていやっていたら現実世界では食いっぱぐれるだけです。現実では適わないから憧れる分にはまだいいでしょう。
絵空事は決して実現しない
絵空事は決して実現しないから絵空事なんです。絵空事に何を期待して信者たちは集まってきているのか?そう、ワンピース信者というのがたまらなく気持ち悪い。疑いもせずに、ワンピース的価値観を手放しで称賛する信者が私は嫌いなのです。
ここで一つはっきりさせたいのは、私がワンピースを嫌いなのは私の問題であり、どう思い、どう行動するかは私に決定権があります。またこれを読んだあなたがどう思い、どうしたいかはあなたに決定権があります。しかしもしあなたが私の考えが気に入らなくて私に害をなすのであれば、私には自分を守るために闘う権利もあります。それだけは頭に入れておいてください。
夢はかないません。叶ったらそれは現実でしありません。現実は好きなことばかりしていても金にはなりません。私のスキルや資格はそのほとんどが好きで身に付けたものです。しかしそれで私が富を生んでいるか?全く生んでいないのです。
いずれ時を経たら晩成するかもしれません。しかしその晩成するのっていつなんですか?いつまで待てばいいんですか?もしかすると私が死ぬまで決して受け入れられないかもしれない。かつての私がそうであったように、だれからも賛同を得ない、自分の好きなことをあてもなく続けることは私には無理なのです。
とはいえ、これを書いている分はひとを信じられてるし、これを書いている分は信じられる人間も少しはいるということになります。それは事実です。昔なら反応がこわくて書けもしなかったことですから、そういう意味では昔より少し楽にはなっているのかもしれないですね。人がどう思おうが己の感じるままに自己主張できるようになったところは昔と確実に違っているところなのです。