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[映画観賞記] 聲の形(ネタバレあり)

2016/09/25

16年9月23日鑑賞。

将也のクラスに転校してきた硝子は聴覚障害者であり、自己紹介でノートの筆談を通じてみんなと仲良くなることを希望する。しかし、硝子の障害が原因で授業が止まることが多く、同級生たちはストレスを感じる一方になっていた。そして合唱コンクールで入賞を逃したことをきっかけに将也を初めとするクラスメイトたちは硝子をいじめの標的とするようになり、補聴器を取り上げて紛失させたり、筆談ノートを池に捨てるなどエスカレートしていった。

度重なる硝子の補聴器紛失事件を機に、彼女の母親の通報によって校長同伴による学級会が行われるが、担任の竹内はいじめの中心人物であった将也のせいだと、威圧的に追及。それに賛同する形でクラスメイトたちも次々と将也のせいだと主張し始め、自分たちも硝子に散々な仕打ちを行っていたにもかかわらず、彼らは皆自己保身のためだけに暗黙の団結を結んで、全ての罪を将也一人になすり付けようとしたのだ。これが、あまりにも信じられない光景に愕然とする将也が、硝子に代わる新たないじめの標的となる日々の始まりだった。(あらすじはWikipediaより)

山田尚子監督の映画で初めて泣かなかった作品になった。内容はよくできているけど、やはりいじめっ子の贖罪には感情移入できない自分がいたのは事実。それに気づけたのには何かしら意味があると私は思った。

映画を見ていて何度も自分をいじめていた同級生の顔を思い出していた。率先して私をいじめていた彼は小学四年生の時に転校し、一旦は私へのいじめは小康状態になる。彼と再会したのは中学生になってからだった。小学生の頃の不遜な彼しか知らないわたしは、変わり果てた中学生の彼の姿にかなり驚いた。風の噂では、転校先では彼がいじめの対象にされていたらしい。

その彼のおどおどした感じが、入野由自さん演じる石田将也の姿とオーバーラップし、時にはシンクロさえしていた。入野さんの名演には何度となく引き込まれた。その上でいうが、贖罪に苦しむのは良いとしても、中盤までの将也がなかなか自分と向き合わない展開にイラついていた。それはヒロインの西宮硝子にしても同様だった。

西宮硝子はいじめられる側なんで、私はむしろ彼女にシンクロするのかと思いきや、彼女にはほぼ感情移入できなかった。

では誰が一番印象に残ったか?それは植野直花だったのだ。彼女は小学生時代、率先して硝子をいじめる側に回った一人だ。ただし、彼女だけが最初から明確に硝子への感情を素直に爆発させている。

それは決して不器用とかいうで片付けられるものではない。別な視点から見れば無自覚な差別だし、積極的にいじめに加担さえしている。だが罪を自覚してなお、彼女は硝子を「嫌いだ!」とハッキリ言った。硝子はそこから更に逃げるように死を選ぼうとする。あれほど苛烈ないじめにあっていた時でさえ死を選ぼうとはしなかった彼女は、自分の命を断つことで問題から逃げようとした。そこらへんが一番見ていていやな部分だった。かつての自分と重なる部分だからこそ、共感できなかった。

実際、仮に全てが硝子のせいだとしても彼女がいなくなることで問題など解決しはしない。そして全てが硝子のせいだというのは、直花の思い込みにすぎない。でも直花がそれでも硝子を嫌いだと言える姿にはなぜかとても共感できた。ただし、直花が石田への贖罪を看病という形で表現されていたのは残念だった。彼女もまた赦されたい側の人間だとしか、私には見えなかったからだ。

硝子は硝子で石田を好きだという。これが彼女の本心だとしたらやはり理解しがたい。私ならあれほどのことをされたら絶対に許せないからだ。作中で描かれている彼女は自分にも他人にも極度に鈍感であり、おそらく耳が聞こえていても同じトラブルを起こしていたに違いないと私は思う。

いじめる側に正義などなく、被害者に反省すべき点などないのがいじめの構図である。だからいじめられた硝子に罪はない。強いていうなら耳が聞こえないばかりに伝えたい気持ちがうまく伝わらない点はあるかもしれない。このあたりは非常に細かく描かれていた。意思疎通の難しさとすれ違いを繊細な絵で生かした京アニらしい丁寧な作りだった。

硝子の度し難い鈍感さと自分と向き合わない苛立ちが共感を阻んではいたが、それだけではない。妹、結弦への姉妹らしい感情表現には硝子の人間っぽさがうかがえた。だがそれは物語のほんのわずかな部分で、大半から読み取れる硝子はやはり耳が聞こえない聖人君子にみえても仕方ないだろう。

耳が聞こえないという人を単なるかわいそうな人、頑張っている人というステレオタイプにしなかったのは山田監督なりの矜持だろう。だからネットスラングでいうところの感動ポルノという指摘は、「聲の形」に関しては的外れだと私は思う。

登場人物の全てがコミュニケーション能力が極端に低いものとして設定されていたけど、この設定はともすれば逃げに見えかねない。不器用でも自分と向かい合おうとする人間に私は共感する。しかしこの映画で自分と向き合おうとしたのは、元いじめっ子の将也くらいなのだ。本来共感できるキャラクターに感情移入できないもどかしさが最後まで残り、いろいろモヤモヤしたものが残ってしまった。聲の形という作品にはキャラクターだけでなく、映画自体が不器用な感じが私にはした。

でも、もしこのモヤモヤが意図的に感じさせられたのだとしたら、それはそれでなかなか油断ならない気もした。映画の見方に正解なんかないんだけど。

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