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[心理×映画] 映画鑑賞記・クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲

05年4月3日鑑賞。

かつて大人たちが体験した昔懐かしい暮らしが再現された「20世紀博」というテーマパークが日本各地で開催されていた。毎日付き合わされ、いい加減辟易しているしんのすけら子どもたちを尻目に、ひろしやみさえら大人たちは、懐かしさに浸って20世紀博を満喫する。

街中でも旧車やレコード、白黒テレビといった昔懐かしいものが売れるようになり、帰宅しても大人たちは昔の懐かしい特撮番組やアニメ番組のビデオに取り憑かれたかのように夢中になる。

ある晩、テレビで『20世紀博』から「明日、お迎えにあがります」という放送があり、これを見た大人たちは突然人が変わったようになり、すぐさま眠りについてしまった。

翌朝、町中の大人たちに異変が起こっていた。大人たちは家事や仕事も忘れて遊びほうけ、まるで子どものようになってしまっていた。しんのすけはいつまでも幼稚園バスが迎えに来ないため自力で幼稚園に行くが、よしなが先生を初めとする幼稚園の先生たちも同様に子どものように缶蹴りをして遊んでいた。そしてしばらくすると、街中に沢山のオート三輪(ダイハツ・ミゼット、ダイハツ・CO型)が「証城寺の狸囃子」の曲を流しながら現れ、それを見聞きしたひろしやみさえを含む大人たちは皆それに乗り込み、子どもたちを置き去りにしてどこかへ走り去ってしまう。

これはケンをリーダーとする秘密結社「イエスタデイ・ワンスモア」による、大人を子どもに戻して「古き良き昭和」を再現し、未来を放棄するという、恐るべき計画の始まりだった。(あらすじはwikipedeiaより)

一言で言えば「大好き」になった作品。それ以上の美辞麗句は、足りない頭をどれだけ絞ったって出て来やしない。

だからこれから書くことは全て繰り言と思っていただいていい。

BSアニメ夜話でも取り上げられたけど、あれを先に見たのは失敗。

どうしても枝葉末葉に目がいってしまい、かえって気が散った。

それでも見るたびに発見があるのが、名作の名作たる所以。まあマニア層が既に語り尽くしているのに今更って気もするが。

よく見ていると、野原家や幼稚園のバスなど、21世紀の実社会で使われている車は、結構適当?に描いてあるのに、虚構の20世紀博の街並みに存在する車はリアル。

もっといえば20世紀の車「だけ」が正確に描いてあってマニアでなくても一目見ただけで古い車が何であるかが分かるように作られていた。

これには感心。

あと、コサキン(小堺一機&関根勤両氏)ファンの原作者と、同作ファンであるところのコサキンのお二人との実に幸せなコラボ。

これも、ただ単に欄外のシーンにお遊びで使うのではなく、お二人の芸をきちんと生かした上で、作品世界にもきちんと当てはめているのが素晴らしい。

ここで取り上げられている70年代アイテムの中にはプロレスが勿論入っている。オープニングからして、馬場対ブッチャーをモチーフにしているくらい。

格闘技だって当時はボクシングにしろ、キックにしろ隆盛を極めていたのだけど、ここでとりあげられているのはあくまでプロレス。それも他のスポーツを

さしおいてかなりのスペースをとって描かれている。子供が見ても絵的にわかりやすいというのもあるだろう。

しかし、ここで描かれていると言うことは、やはりプロレスが一番幸せだった時代は、既にノスタルジーの中にしかないという、厳しい現実の裏返しでも

ある。それは見ていて切なかった。

だが、同時に他の格闘技は選ばれずにプロレスだけがそこに描かれた事実は、ノスタルジーの中にこそ最も生きるというこのジャンルの特異性の証明とも

言える。

一見悪いことのように考えられがちであるが、過去にのみ生きる現実に未来はないし、過去を顧みない現実にも未来はない。総合などはともかく、

格闘技そのものの歴史もまた古い。にも関わらず顧みられる過去があまりない現実。懐かしく思い出して浸ることの出来る甘美な想い出が少ないと

言うことは、ジャンルとしても不幸ではないか。

ここに今の格闘技界最大の問題点がある。ジャンルとして若いから、成熟していないからと言うのはおかしいし、勝負論という現実優先で

あるからと言うのも変。

ノスタルジーは時に非常な勝負でさえ、甘く切ないものに変えてしまうものなのだ。

だとするならば、ノスタルジーの中に生きられると言うことは、最早特権であるとさえ言えるのではないか。

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