怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(163) 自分の問題と向き合うための10の闘い(53) 50にして知る天命とは何か?③
明日生きられる保証なんて誰にもない
今回は老いの話をします。
先日、母方の伯母が亡くなりました。一族の中では比較的元気な人だったので、結構驚きました。これで母方の兄弟姉妹はうちの母と、施設に入っている伯母の2人だけとなりました。こうして考えていくと、自分の「順番」も意識せざるを得なくなってきます。人間いつ死ぬかなんて誰にもわからないんですから、悔いなく生きたいと思っていても、明日生きられる保証なんて実は誰にもないのです。
ところで日本語には円熟という言葉があります。人格・知識・技術などが円満に発達し、豊かな内容をもっていることを意味します。物事が熟達していくと、角がとれて丸くなっていくことも意味合いとしてはあるように思います。
プロレスに置き換えると、無駄を省いてシンプルだけど、それだけで観客を魅了できる試合や、その技能がある選手たちに、私は「円熟」を感じます。
プロレスラーは若い時代のイメージを比較的損ねることなく、年齢に応じたファイトスタイルにシフトチェンジする選手も少なくありません。
円熟と老いは切っても切れない関係にあります。昨日免許の更新に行ったところ、今まで引っかかったことのなかった視力検査に引っかかってしまいました。
後で改めて眼鏡屋さんで検査したところ、眼鏡かけた状態で両目の視力が、0.5にまでおちていました。当然買い換える羽目になりましたが、考えてみたら、昭和で三回、平成で二回しか眼鏡を買い換えずにこられたのはむしろ奇跡的と言えるかもしれません。
伯母の死とともに考えてみたこと
最近急激に景色が見えづらくなっていたため、おかしいとは思っていましたが、私の場合、外面と内面は若いつもりでいたため、ついつい大事なことなのに、後回しにしてきたんですね。
しかしながら、こうしたタイミングで自分の衰えを認識できるのは、むしろ有難いこととも言えます。老いを認識しないまま、運転を続けていたら、大事故にも繋がりかねません。
危機意識を常に高くもつのも大切ですが、こうした非常事態に気づくことができるのもまた円熟のなせる業ではないか?と私は考えています。
たしかに、老いを感じるといやな感じがしないでもありません。でもまあ、誰でも生きている限り、老いと無縁ではいられません。
若い時代から老成している人はたくさんいますが、彼らは老成しているだけで、円熟とは呼ばれていないのではないか、と私は思っています。そうすると円熟の境地とは、ある程度年をかなって重ねないと手に入らないものなのではないでしょうか?
だとしたら、一概に老いることが悪いことばかりだとは言えないと私は思うのです。
とはいえ、会話の中で世代的ズレを感じたり、近眼ゆえに慣れていたはずの見えにくさに今更ながらオドオドしたりするというのは、私がありのままの自分を受け入れがたく感じている何よりの証拠でしょう。
このあたりはこれからいきていくうえで私の課題になっていく部分でしょうね。そんなことを伯母の死とともに考えてみました。