怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(2)私がワンピースをキライな10の理由その2
2018/03/07
海賊王に俺はなる?
このブログは基本自分が毒吐きたくて書いてます。毒は自分の中にためておくと、だんだん大きくなっていってある日、暴発します。今回も私の「毒吐き」にしばらくお付き合いいただこうかとも思います。
誰しも憧れというのはあるでしょう。ああいう人になりたい、とか、人でなくてもいい暮らしをしたい、贅沢したいなどなど。しかし、人間は自分以外の自分にはなれないのです。どんなに頑張っても、どんなに自分を偽ってもです。もし幼いころの自分と今の自分が乖離しずぎていたとしたら、それはなれない自分になろうとして頑張っているだけかもしれません。
虚像を演じているとは気づきもしないで必死でありもしない自分像を維持するためだけに生きているのって滑稽だし、哀れですらあります。その滑稽で哀れなのが私なんです。憧れという手にも届かない虚像を、実現しもしない可能性に当てはめて無理やり生きてきたのです。本当に息苦しくて仕方ありませんでした。
と、ここまで書いてようやく本題です。ワンピースの何が嫌いって、主人公ルフィです。ちなみに私はルフィ役の田中真弓さんの30年来の大ファンで、生でライブも見ているくらい大好きですが、それとこれは話が別です。
ルフィの有名なセリフってありますよね。「海賊王に俺はなる!」って。じつは生で田中真弓さんがこのセリフ叫んでいるのも聞いていて、真弓さんが顔出しでいう分には何度でも聞きたいくらいです。しかし…
あの絵がついてルフィがそれをいうともうダメなんです。そもそも海賊王ってなんなんですか?海賊ならまだわかります。なりたくてなれるかどうかは別にして海賊は現実にもいますしね。しかし、現実にはいるけど犯罪者であることも間違いありません。その海賊の王ですよ。犯罪者の王様ですよ。こんな厨二病全開のセリフを、当たり前のように受け入れさせたのは田中真弓さんの力によるところが大でしょう。ワンピース嫌いな私でさえ、その迫力には圧倒されましたから。
「たかが」が大好きだからこそ
たかがフィクションの枠におさまるならまだ許せます。たかが漫画ですから。そのたかがが大好きな私ですから、海賊王以上に恥ずかしい表現、特に厨二病的表現はむしろ大好きです。
ちなみにコミックス読みたくないので、海賊王の由来をいやいや調べてみました。
すると、海賊王とは伝説の海賊「ゴール・D・ロジャー」の通称であり、彼がこの世の果てに隠した秘宝『ワンピ-ス』を手にしたものに送られる、海賊にとっての最高の称号ということになっているそうですね。
で、疑問なんですが、ルフィは果たして犯罪者のお山の大将になりたいのか?伝説の海賊みたいになりたいのか?ワンピースがほしいのか?私には彼が何をしたいのかが理解できないし、それだけでついていこうとする仲間の感性にも理解しかねる部分がたくさんあるわけです。たとえそれが個々の夢を叶える為だけだとしても。
冒頭に書いた通り、人間は自分以外の自分になることはできません。なれてもそれは虚像でしかなく、思い込みで変わったのだと信じ込んでいるだけで、等身大の自分は決して自由になっていないのです。では等身大のルフィとはなんなのか?なぜ海賊王とかいうぼんやりした概念が彼の目的なのか?今の自分ではない何かになりたくて海賊王になりたいのか?
確か、海賊王に憧れるキッカケみたいなエピソードはあると聞いたことがあります。そこまでは読んでいませんけどね。読みたくもないし。しかし、私が気に入らないのは「願いは口に出して言えば叶う」みたいな安易さと、それを数打ちすぎて「わかったからもういい!」となるくらい「海賊王になる」ことがしつこく繰り返されている点にあります。そこに等身大のルフィは果たしているのでしょうか?
友情・努力・勝利
マンガだから、そこはぶれないんだ、とあなたがいうならそうかもしれません。しかし、私は自分の夢を疑い、自分の夢すらぶれまくる人間です。ましてや自分が何になりたいのか?そんなに疑いなく夢が明確になっている人間がどれくらいいますか?私は常に自分を疑い、自分の夢すら疑います。だから臆面もなく自分の夢を語りたくもないし、語る気すらありません。
そもそも語って自分が理解できる夢がありません。そんなんだから、もしかしたら一面ではルフィを羨んでいるのかもしれません。しかし、私がルフィなら海賊王になりたいという言葉は決して口にはしないでしょう。気持ち悪いからです。少なくともその言葉のもつ気持ち悪さだけはわかるので、仮に思ったとしても口には決して出さないのです。
少年ジャンプのキャッチフレーズは今も昔も「友情、努力、勝利」です。この中で永続的なのは、努力だけです。友情は一瞬で壊れますし、勝利は一瞬だけのものです。そして私が読んだ範囲内での判断ですが、型破りなようでいて、ワンピースはこのキャッチフレーズから一歩も踏み外してはいません。
だからつまらないと私は思っています。そもそも友情は自分が一方的に感じているだけかもしれないものだし、一方通行の片思いである場合だってあるはずです。それによる勝利など所詮手にしても泡沫の夢にすぎません。よくやまない雨はないという表現をしますよね。たしかに雨がやまないことはありません。
一回失敗したら・・・
しかし勝ち負けの比喩としては使えないと思います。特に一回失敗したらこの国では半永久的に負け組です。だから皆失敗を恐れる、リスクは背負わない、責任も取らない。現実はそんなもんです。もしもあなたがワンピースに現実ではかなわない部分を夢見ているのだとしたら、まあそこらへんは少し理解できるかなと思います。逃避と置き換えてもいいですけど、そのくらいの逃避はあってもいいでしょう。
私は常に一方的な片思いをして、常に敗北してきました。そこに勝利などはありません。常に告白してはふられ、未だに自分の想いが成就したことはただの一度もありません。常に他人は自分の期待を裏切ります。しかし他人は他人なんで私の期待にあなたが答えたいか否かはあなたに決定権があります。ならばあなたの答えで一喜一憂する前に、最初から何も期待しない方がマシなのです。それでも努力し続けろ、というのならそれはかなり酷な話です。
裏切りのリスクを抱えた友情と、ありもしない幻のためにひたすら努力だけ強いられる構図と、一瞬だけの栄光でしかない勝利。これら全てをワンピースは感動というパッケージで押し売りしてくるのです。これを今の大多数の日本人が求めているのだとしたら、私は大多数の感性を疑いますし、大多数の人間も信用できません。
このカラクリに嫌気がさして以降わたしはジャンプから足を洗いました。個々の作品で好きなものはありますが、それはジャンプとは切り離して見られることが多いように私は思います。