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[イベント備忘録] 原田とシン・ゴジラと②

2017/04/09

今回は庵野秀明は思想家か否かという話をしたい。結論から言うと庵野秀明は思想家ではないと私は思っている。思想家ということなら、宮崎駿や富野由悠季の方がよほど思想家である。特に宮崎駿は軍事オタクで、しかも理想的平和主義者でありながら、独裁者の顔も併せ持つ。もともと共産主義的政治色も強いから、言葉通りの思想家である。

しかし庵野秀明はエンターテイナーであり、これは師匠筋の富野、宮崎をも凌駕するとさえ私は睨んでいる。シン・ゴジラにかまけて、制作が遅れにおくれている新劇場版エヴァンゲリオンだが、このシリーズにおける第一作目の「序」、第二作目の「破」の評価はすこぶる高い。特にエヴァの中で人気の高いヤシマ作戦がでてくる序は、シン・ゴジラとの共通性も指摘されていて人気もある。エンターテインメント性も頭抜けている。

だが、一転三作目の「Q」になると突然新劇場版エヴァンゲリオンは破綻しだす。長年庵野秀明作品と付き合ってきた私が劇場で寝てしまうくらい退屈な映画だった。わけがわからないということでいうなら「旧劇場版」の二作も十分そうなのだが、旧劇場版エヴァはまだ最後まできちんとみられた。しかし、Qに関しては私も本当に訳がわからない。

エヴァンゲリオンで有名な主人公・碇シンジのセリフに「逃げちゃダメだ!」というのがあり、彼はこれをしきりに繰り返すのだが、本当は逃げる自由も逃げない自由も彼にはあるのだ。にも関わらず逃げたい自分をおさえつけて、「逃げちゃダメだ」と繰り返すのは、はたからみたら滑稽ですらある。

実はシンジも物語の中で逃げ出している。逃げ出しているのだが、結局戻ってくる。それは庵野秀明も然り。庵野秀明もまたシン・ゴジラに逃げてから、シン・ゴジラ完成後は再びエヴァの制作に戻っている。

しかし、エヴァからエスケープした先のシン・ゴジラからは庵野秀明が逃げ出した形跡はない。むしろ多くの登場人物を含めて積極果敢に難事に挑もうとしているのだ。やはりシン・ゴジラからは「逃げちゃダメだ」という要素は微塵も感じられれない。むしろエンターテイナー・庵野秀明の才能が爆発した内容になっている。それはあたかもオタクが、語ることを許されて嬉々としてしゃべりたいことをしゃべる光景にも似ているように私には思えてならない。

いい例がシン・ゴジラ製作にあたり、自衛隊に協力要請した際、脚本をみた自衛隊側があまりのリアルさに「機密漏えい」を疑ったというエピソードである。まさにオタクの中のオタク、庵野秀明の本領発揮といえるエピソードではないだろうか?軍事のプロを驚愕させたおそるべき知識量こそ庵野秀明の本分といえるだろう。

では、そんな庵野秀明がなぜ哲学的、思想的な表現を好むのか?それは1980年代に公開された劇場版伝説巨神イデオンの影響があるのではないかとわたしは想像している。イデオンは日本のアニメ史上で初めて哲学的テーマに挑んだ作品と言われている。イデオンが哲学的かどうかの是非についてはここではふれないが、イデオンとの出会いは、80年代の少年少女にトラウマに近いものを植え付けた。このイデオンに庵野秀明が感化されたことは想像に難くない。

イデオンの製作後ではないが、総監督の富野由悠季もまた後に精神を病んでいるし、宮崎駿は精神こそ病んでいないものの、大のヘビースモーカーとして知られる。身と心を削って作品つくりに明け暮れるクリエーターの壮絶な部分でもある。そこに庵野秀明が惹かれるのはわからいではない。しかし冨野御大や宮崎長老のようなある種、無責任な耐性を庵野秀明は、持ち合わせていないはずであると私は想像している。オタクの心は意外とガラスのハートであることが多い。おそらくエヴァを作っているときの庵野のメンタルはボロボロにする減っているに違いないと、私は想像している。

好きこそものの上手なれ。庵野秀明が超一流のエンターテイナーである所以は、まさに好きという力が原動力になっていよう。だからこそ彼が仕事としてこなしているだけの作品には魅力を感じられないと私は思うのだ。

果たして新劇場版エヴァンゲリオンは、このまま庵野秀明の「仕事」と化すか、それともシン・ゴジラのように、庵野秀明の好きが溢れた作品になるか。

結果を楽しみに待ちたいと思う。

(敬称略)









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