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[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝㉞鶴見五郎

2020/10/12

異色の経歴

今回はヒールでありながら、確かなテクニックで選手からも信頼の厚かった鶴見五郎さんのご紹介です。

鶴見さんは、東海大学理学部物理学科に入学後、勉学と同時にレスリングに打ち込んでいましたが、大学にレスリング部がなかったため、場所を転々としながら独自に練習していたそうです。

そして、1971年6月に国際プロレスに入門し、7月12日、札幌中島スポーツセンターでデビューしました。

1973年3月、海外武者修行のため、ヨーロッパに渡り、主に西ドイツにて活動しますが、この時期、イギリスに渡り「蛇の穴」と呼ばれたビリー・ライレージムにてランカシャーレスリングを学びます。

ヒールへの転向

その後ヨーロッパからメキシコに転戦します。このメキシコ遠征の際、大半の日本人レスラーがメキシコ遠征にあっては食事が合わず体重を落としていた傾向があるなか、鶴見さんは、増量して帰ってきました。これは、食事をほぼ自炊でまかなったため栄養管理ができていたからです。

1975年、帰国して中堅レスラーとして活動しますが、稲妻二郎選手との抗争を展開して、それまで着用していた青いレスリングギアを胸に髑髏のマークを付けた黒いコスチュームに変えてヒールに転向します。

1980年1月4日に引退していた大位山勝三をパートナーに、ミスター珍をマネージャーに迎えて『独立愚連隊』を結成。これは日本人による初のヒール軍団となりました。

しかしこれは、国際プロレスが経営難となり、外国人レスラーに支払うギャラや旅費の工面に悩む吉原社長は、日本人自らがヒールとなり、外国人側の役どころを代行すれば経費が抑えられると考えて自ら考え出したアングルであったと、後に鶴見さん自身が語っています。

国際プロレス放課後は、ドイツのCWAやカルガリーのスタンピード・レスリングなど海外転戦を経て、フリーランスとして全日本プロレスに登場。当初は外国人サイドにつき、ヒールとして活躍します。

全日本から引退まで

1984年の世界最強タッグ公式リーグ戦の最終日には、ラッシャー木村さん、アポロ菅原さん、剛竜馬さんと共に「国際血盟軍」を結成しますが、全日本における日本人選手が飽和状態となり、1986年3月をもってメンバーが整理解雇されたことにより、同軍団は事実上解散します。

その後、1990年にSWSへ移籍します。これは引き抜かれたのではなく、鶴見さん自ら将軍KYワカマツさんに連絡し入団したそうです。

SWSは崩壊、紆余曲折を経て、IWA格闘志塾を旗揚げ。インディー団体の統括組織であるレスリング・ユニオンに加盟します。1994年には一時期ではあるがFMWにも参戦しています。

しかし、レスリング・ユニオンが活動を停止したのに伴い、団体名を国際プロレスプロモーションと変えて地元横浜市鶴見区、茅ヶ崎市を中心にトレーニングジムの経営と平行しつつ、小規模ながら地道な活動を続けていましたが2006年7月に引退を表明しました。

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