私的プロレススーパースター烈伝(30)テリー・ファンク
デビューから初来日
今回はテキサスの荒馬・テリー・ファンク選手のご紹介です。テリー選手はプロレスラーのドリー・ファンク・シニアの次男として生まれ、兄のドリー・ファンク・ジュニアと共にレスリングの英才教育を受けながら育りました。
ウエスト・テキサス州立大学でアメリカンフットボール選手として活動後、1965年にプロレスラーとしてデビュー。父がプロモートしていたテキサス州アマリロ地区にてキャリアを積んでいきます。
1970年6月、日本プロレスに初来日すると、1971年12月7日、ドリーとのザ・ファンクスでジャイアント馬場&アントニオ猪木のBI砲を破り、インターナショナル・タッグ王座を獲得するなどの活躍をします。
オープンタッグの惨劇
日本プロレス崩壊後は、1972年10月には全日本プロレスの旗揚げシリーズに参加、以降、全日本プロレスの看板外国人選手となりました。こうして1970年代後半から1980年代前半にかけて、日本のプロレス界で最も成功した外国人レスラーの一人になったわけです。
有名な1977年の「世界オープンタッグ選手権」決勝戦において、凶器攻撃を繰り返すアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークの最凶悪コンビに「テキサス魂」で真っ向勝負を挑む姿に、男女を問わず熱狂的なファンが付き親衛隊も生まれました。
大成功を収めた「世界オープンタッグ選手権」は、年末の興行は不振とされていた日本のプロレス界の定説を覆し、以降「世界最強タッグ決定リーグ戦」へと発展して全日本プロレスの看板シリーズとなったのです。
なお、一度目の引退を発表したのは1980年で、突如「私の膝は皆が思っている以上に状態が良くない。動ける内に身を退きたいので、3年後の誕生日に引退する」と発言し、ファン、そしてプロレスマスコミを驚かせました。1983年の引退試合の前に来日したグランド・チャンピオン・カーニバルIIIには「テリー・ファンクさよならシリーズ」と副題がついていたほどでした。
引退、そして復活
テリー選手はNWA王者として活動し超一流のレスラーとしての名声を得た後でも、新しいことに果敢にチャレンジする姿勢は、「リビング・レジェンド」(生ける伝説)と讃えられています。
ハードコアマッチやデスマッチへの挑戦、50歳を過ぎてからムーンサルトプレスを使い始めるなど、後に続く者からのリスペクトは絶えません。後年は若手育成にも力を入れ、ECW時代は積極的に若手とも試合を行なっています。
また、長年の酷使により膝が完全に壊れているため、膝サポーターは欠かせず、常にロングタイツを着用しているのも特徴です。今もなお現役であると伝えられるテリー選手ですが、最近は来日が途絶えています。またあの勇姿を見てみたいモノです。