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[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝⑰石川孝志

2020/06/27

大相撲時代

今回は大相撲からプロレスに転向し、波乱のプロレス人生を送った石川孝志選手のご紹介です。

石川考志選手は、名門日大相撲部で活躍し、全日本相撲選手権大会に優勝してアマチュア横綱など数多くのタイトルを獲得、主将も務めましたが4回生時に糖尿病を患います。これが後の力士廃業の理由でもありました。

大学卒業後は大相撲の花籠部屋へ入門します。アマチュア横綱経験者が初めて角界入りしたとして当初は注目を浴びました。

期待の技巧派力士として順調に幕内まで昇進するものの、糖尿病の再発を理由に24歳、1977年7月場所をもって廃業。なお四股名の大ノ海は、師匠であった11代花籠親方の四股名でもあり、それだけ将来を嘱望されていました。

プロレス転向

廃業直後からプロレスへの転向を表明しており、1977年10月にはフリーの選手として全日本プロレスへ参加します。当時の全日本プロレスでは、前年10月に天龍源一郎、同年7月にプリンス・トンガと、大相撲からの入団者が相次いでいた。全日本が石川を直接入団させず一旦フリーという扱いにしたのは、こうした背景から角界との軋轢を避けるためであったと言われています。

全日本プロレスでの活動後期は、同じ日大相撲部出身で、力士時代も同部屋の輪島大士とは先輩後輩でありますが、二人は大相撲時代も仲が良かったようで、輪島の全日本プロレス入りに深く関わったとされます。

東京プロレスへ

1988年12月に全日本プロレス所属選手として一度プロレスラーを引退しますが、1990年のSWS旗揚げに際し復帰、SWSに参加。SWS崩壊後は天龍と行動を共にしWARに参加するが、あくまで天龍を看板としたWARに離反し、1994年9月新団体の設立を表明します。それが東京プロレスでした。

東京プロレスは、1994年10月設立。12月7日、石川産業展示館で旗揚げ戦を開催。かつて存在した東京プロレスとは無関係です。

ただし大物選手の招聘を続出させた事などで人件費がかさみ順調に見えた運営も内情は苦戦が続きます。

FFFの失敗

1996年11月1日、東京プロレスのオーナーがFFF(トリプルエフ、ファイティング・フォー・フューチャー、日本プロレスリング共同機構)を設立することを発表(FFFプロレスリングとは無関係)。東京プロレスのオーナーとI.W.A.JAPANを退団した佐藤昭雄が手を組んで乱立するインディー団体を統一する構想で、これに呼応する形でI.W.A.JAPANなどを主戦場としていたターザン後藤が率いる「真FMW」、天龍源一郎との確執でWARを離脱した冬木弘道が率いるユニット「冬木軍」などが参加を表明します。

これに対して東京プロレスと対立関係が悪化していたWARは、FFFに対抗する形でプロレス連合會を設立。これにはI.W.A.JAPAN、WARと提携していた武輝道場のほかに冴夢来プロジェクト、レッスル夢ファクトリー、大日本プロレス(後に離脱)が参加してインディー統一に向けての受け皿が分裂するという混迷の中での始動になってしまいます。

結局、当時のオーナーはバイク便会社の社長で他にも事業を手掛けていたものの、関連事業の業績悪化でFFFへの資金調達が難しくなり所属選手とスタッフを残して雲隠れしてしまうなどの結果、旗揚げを前に崩壊するという前代未聞の事態となりました。

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