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私的プロレススーパースター烈伝⑧アンドレ・ザ・ジャイアント

2020/06/03

諸説あるデビュー戦

今回は、圧倒的な体格もさることながら、アームロックなどのレスリングテクニックでも観客を惹きつけることができる巨人レスラーとして、世界各地で活躍したアンドレ・ザ・ジャイアント選手のご紹介です。

梶原一騎さんの「プロレススーパースター列伝」などで日本に流布していた「プロレスラーになる前にはきこりをしていて、山中にいるところをエドワード・カーペンティアさんに発見された」という逸話は事実ではないそうです。

アンドレ選手は、デビュー前はパリの家具運送会社に勤務しており、無名時代にカーペンティアさんに見出されたというのが真相といわれています。もっとも、南アフリカでのデビュー説もあるなどフランス時代の経歴については不明瞭な部分も多く、様々な説があります。

北米進出、そしてWWFへ

1964年、18歳の時にパリでアンドレ "ザ・ブッチャー" ロシモフとしてプロレスデビューしたあとは、1970年2月に国際プロレスに初来日。その際、同時来日していたAWAの重鎮バーン・ガニアさんに見込まれ、1971年9月より北米へ進出します。

フランス語圏であるカナダのモントリオールを拠点に、ジャン・フェレ( 日本では英語風に「ジーン・フェレ」と読まれた)の名で活動を開始します。1973年にアンドレ・ザ・ジャイアントと改名し、WWWF(現:WWE)のプロモーターのビンス・マクマホン・シニア氏と契約します。

しかしアンドレ選手はWWWFとは専属契約をしたわけではなく、マクマホン・シニア氏のブッキングで古巣のAWAやNWAはもとより、世界中の様々な団体を定期的に短期参戦して回るようになっていきます。

殿堂入り第一号

これは「滅多に出会えない怪物」として希少価値を高めるというマーケティング上の戦術からの判断だそうです。この世界サーキットを行っていた10年間が彼の全盛期であったようです。

1990年にWWFを退団。その後、さらに増した身体の痛みにより試合を行う機会は減少しましたが、最後の主戦場とした全日本プロレスにおいては、主にジャイアント馬場さんとのタッグ「大巨人コンビ」で活躍しています。

1993年1月27日、パリのホテル内で死去。死因は急性心不全であった。長年に渡る過度の飲酒が原因と言われています。

アンドレ選手は、飲酒量が桁違いだったため、酒にまつわる逸話は数知れなかったですね。また晩年はトレーニングをしておらず、心臓に負担がかかっていたようです。

なお、WWFは生前の活躍に敬意を表するために、WWF殿堂(後のWWE殿堂)を設立し、殿堂入りの第一号を彼に与えています。

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