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[プロレスコラム]プロレス想い出コラム 一流の紳士・マサ斎藤伝①

週6日は死んでいた日々

私がマサ斎藤さんにお会いしたのはただの一度きりである。試合はたくさん見ているのだが、この一度もほぼすれ違いに近いので、会ったと言っていいのかどうかも怪しい。しかし通りすがりも多少の縁というのであれば、間違いなく私とマサさんには接点があったのだ。

私は二十代のころ、車のセールスマンをやっていた。セールスマンにはなりたかったわけではなく、しぶしぶ就職したのだ。仕事は単なる金稼ぎの手段でしかなかった。日銭を稼いでは週末プロレス観戦につぎこむ毎日。プロレスを観ている瞬間だけ自分は自由でいられたし、残りの6日間は死んだも同然だった。ちなみに週末と言っても営業マンが土日祝日休めるわけではないので、私にとっての週末は月曜だった。

今のように地方にも数多く団体が存在する時代ではなかったので、生観戦しようと思えば、遠方に行くしかなかった。調べてみると、意外にも大阪の大会に月曜開催が多いことに気づいた私は、下手をすると毎週ごとに大阪にかよいつめるようになった。それくらい下関にいるのが嫌で嫌で仕方なかったのだ。

やがて、私は大阪のプロレス仲間の紹介でとあるお店に通うようになる。それが、元・日本プロレスのレスラーで、海外ではカルガリーのハートファミリーのもとで、ブレッド・ハートをはじめとする数々の名レスラーを育て上げたミスター・ヒトさんのお店「ゆき」だった。

贅沢な空間と偶然

あのころ、大阪のプロレス興行が終わったあと、プロレスファンが集う溜まり場として「ゆき」は賑わっていた。ファンだけでなく、ヒトさんと親交のある選手も食事に訪れるという稀有な場所でもあった。

今みたいにレスラーを囲んでのイベントとかではなく、普通に一つの空間で選手とファンが食事をしているだけという、今考えるとなんと贅沢な空間にいたんだろう、と思わずにはいられない。

その日は確か新日本の大会後に、「ゆき」へ移動。橋本真也、獣神サンダー・ライガー、そして馳浩の連名が入った「ゆき」の提灯がつるされた玄関をくぐり、いつものように、ヒトさんの「ブレッド・ハート自慢話」を聞きながら、お好み焼きを肴にプロレス談義に花を咲かせていた。

どれくらい時間が過ぎただろうか?店の引き戸が開いて、大柄の男性2人が入店してきた。それがマサ斎藤さんと、提灯を寄贈した馳浩選手だったのだ。

馳選手とマサさんはジャパンプロレス時代からの先輩・後輩。ヒトさんとマサさんも、日本プロレス繋がりで、また海外で名声をあげた日本人選手という共通項がある。

さすが気配りのできる馳選手だけあって、奥の間を事前に予約していたようで、ヒトさんの奥さんが、マサさんたちを迎え入れていた。が、あいにくちょうどお店には私たち以外にもお客さんがたくさんいた。しかも「ゆき」の店内はそんなに広くはない。ましてやプロレス界でもヘビー級の2人が通るにはあまりに通路は狭過ぎた。

一流の選手は一流の紳士

そういうわけで、我々も遠慮して椅子をなるべくひいてマサさんたちが通りやすいように、なんとか道をあけた。しかし、それでも巨漢のマサさんと私の背中がぶつかるかぶつからないか、スレスレくらいな隙間しか開けられなかった。

すると、マサさんが我々に「失礼!」と軽く会釈をされて、奥の間に行かれたのだ。

邂逅と言ってもたったこれだけの事である。しかし、まだ20代(当時)の若造で、しかも名もなきプロレスファンとしては、あの世界のマサ斎藤に会釈された体験なんて、何ものにも変えがたい財産であることには間違いない。それは四半世紀を経た今となっても変わりはしない。

その後どうやって店を後にしたのかは全く記憶にないのだが、獄門鬼と呼ばれ、恐れられたマサ斎藤さんの紳士的な立ち振る舞いは、未だに脳裏に焼き付いて離れない。

一流の選手は一流の紳士である。私はマサさんとの邂逅でそれを学んだ。世の中には単に年が上だから、立場が上だからと威張りたがる人間はごまんといる。しかし、マサ斎藤さんのような大人はそんなにたくさんはいない。私は今でもこの日の出来事を思い出すたびに自分への戒めにしている。正直生きているうちにマサ斎藤さんのような立ち振る舞いができる大人にはなれそうにはない。その自信もない。

でも、マサさんになれなくても、マサさんの生きていこうという姿勢を見習って、これからも私は当たって砕ける人生は送っていくつもりでいる。

Go for broke!

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