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プロレスよありがとう!クレイジーでモンスターな好事家がマニアに捧げるメモリアルブログ(7)モンスター的プロレスコラムその7

2016/10/04

私が大阪でお世話になっていたミスターヒトさんについてもう少しお話をしたいと思います。大相撲時代は出羽海部屋の力士として活躍後、日本プロレスに入門し、日本プロレス崩壊後は海外を中心に、フリーランスの日本人ヒールとして活躍しました。カナダのカルガリーで活躍していたトーキョー・ジョーこと大剛鉄之助さんが交通事故に遭ったため、その代役としてプロモーターのスチュ・ハートに呼ばれたことを契機に、1970年代中盤より同地のスタンピード・レスリングを主戦場とするようになりました。全米転戦後シングル・プレイヤーとなってカルガリーに定着し、ブッカー、トレーナーとしても手腕を発揮しました。ダイナマイト・キッドやブレット・ハートを筆頭に、クリス・ベノワ、馳浩、獣神サンダー・ライガー、橋本真也、リッキー・フジなどを指導した名伯楽として知られています。新日本との関係悪化後は84年11月にダイナマイト・キッドとデイビーボーイ・スミスを全日本に電撃移籍させています。引退後は大阪・玉造にてお姉さんの経営していたお好み焼き屋「ゆき」を引き継ぎ経営されていました。と同時に一時期大日本プロレスでもレフェリーとしてリングにあがっておられました。

この「ゆき」が私の大阪観戦時にたまり場にしていたお店です。入口には馳・ライガー・橋本の連名入りのちょうちんが飾られており、これは新日と険悪になった後も親交があったことを伺わせていました。私が目撃した限りでは馳やマサ斉藤さんは大会後、必ず顔を出していましたね。私たちが顔を出すといつもヒトさんは奥から出てきて歓待してくれました。お店が忙しくないときは我々に色んな話をも聞かせてくれました。その多くはBIの悪口と愛弟子・ブレッド・ハートの自慢話でしたが、根っから人がいいせいか全然不愉快な感じはしませんでしたね。

90年代には大阪プロレスができて大阪にもローカルプロレスの波がおきはじめていました。しかしヒトさんはこの流れには否定的でした。「そりゃ常設会場があって、試合数があればプロレスはうまくはなるよ。でもプロレスっていうのは本来大男がぶつかり合うものなんだ」と力説されてもいました。確かに会場でも大相撲出身者のヒトさんは頭一つ大きかったし、異様に目立っていましたからね。また、練習しない選手に容赦しないことでも有名で、PWC時代にあまりにふがいない試合をした牛若丸に試合後鉄拳制裁をしたという逸話はあまりに有名です。

お店には月刊誌時代のプロレス&ボクシングなどの貴重な資料もたくさん置いてありました。その本を感心しながらみていると、ヒトさんは我々の目の前でそばめしを焼いてくださいました。このそばめしというのはもともと神戸の名物ということを後々知るのですが、この味が忘れられなくて、今もヒトさんの手さばきを思い出しながら自分でも作ったりしてます。しかし、なかなか思い出の味には近づけないですね。もしヒトさんが今、私の料理をみたら「馬鹿野郎!そんなんじゃねえ」とか言って怒鳴られそうですけどね。

そうそうこの馳とマサさんが来店されたときのエピソードで忘れないことがひとつあります。決して大きくはないお店がたまたまいっぱいだったこともあって、私たちはすみっこで小さくなっていました。そこへマサさんと馳が入ってきました。まるでマサさんを先導するセコンドのように馳が入ってそのあとをマサさんが入ってきたのですが、なんせあの大きな体です。通路を通られるときに私に軽くぶつかってしまいました。そのときどすのきいた声で「失礼!」といって頭をこくっと下げて奥へ通っていかれたマサさんの背中はひたすら格好良くみえました。会場でならちょっとぶつかったくらいでは謝ったりしないでしょうけど、リングを降りると実に紳士なんだなあと感動したのをつい昨日のことのように覚えています。

実はキッド・スミスを転戦させた全日本とも必ずしも良好な関係にあったとはいえなかったみたいで、馬場、猪木はもちろん馬場夫人の元子さんまで呼び捨て・・・・。まあ、有名なハル薗田保険金事件とかお金にまつわるトラブルは死ぬほど聞かれましたね(後年ザ・グレート・カブキ選手からお話をお伺いした時に、カブキさんも元子夫人だけは「元子」よばわりされてました)。このリアルヒール馬場元子の伝説はヒトさんが話してくれたものが記憶に残っています。まあでもどれも陰惨な話ではなく楽しい話にしてくれたのが、ヒトさんが単なる毒舌家でなかった証だと私は思っています。

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